おぼろげ記憶帖 01 初めての記憶

人として生まれていつ頃、何歳ごろからの記憶が残るのでしょう。

昭和16年(1941年)5月に大阪の堂島の病院で私は生まれました。

大川を渡ると中之島。市庁舎・公会堂・中央図書館・裁判所のある街の真ん中です。この年の12月8日に真珠湾攻撃が始まりましたのでまさしく第二次世界大戦以前の人間です。それから昭和・平成・令和と年齢を自覚しないままに歳なりの健康に恵まれて感謝しつつ日々を過ごしています。まるで昭和の化石のようです。

空襲警報が出て大急ぎで防空壕へ。ろうそくが一本灯った中で、
「赤ん坊を泣かすな!」
という怒鳴り声とB29の爆音...。

住んでいた家の間取り――玄関を入って右側に畳の部屋がありずっと奥に菊の大きな白い盆栽。左手に階段がありました。
お日様が出ていないから夕方だったのでしょう。
私は祖母に手を引かれて、弟と母の4人が歩いていました。(弟は、年齢から考えて負ぶわれていたのかも?)
私の背よりも高い石垣の上に赤飯をお茶碗にてんこ盛りにして割り箸を1本突き立ててある風景――多分これは郊外へ疎開した時のことだと思われます――これが私の記憶の始まりです。

昭和20年の6月1日の大阪大空襲で家は丸焼けになり、それまでの生活のすべてを失い、帰るところもなくなっていました。

父は戦地に行ったままでしたから、それ以後は戦前の生活や戦争のことが話題になったことはありませんでした。きっと封印して辛い思いで暮らしていたのだろうと年を経て思い至りました。そしてとうとう祖母と両親にその頃の話をしないないままに見送ってしまいました。思い出させることが悲しくて聞けなかったのかも知れません。

古希も過ぎた近年になって11歳と16歳上の従姉と昔話をする機会がありました。

3つの記憶を話したところ家の中央は台所であったこと。
お茶碗のご飯は兵隊さんへ、もしくは亡くなった我が子へお腹すかさないようにという供養ではないかと。
もうその頃は食料も十分ではなく余程のことであったろうということ。
疎開したのは3月の後半のことだったと教えられました。

ということは4歳になる少し前の記憶のようです。あまりにも尋常でないことは幼くても覚えているのでしょう。それ故に、私は戦争という言葉に今なお恐れおののき、平和を切に願うのです。

AZ

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