齋藤英雄
ロックフェラーの素顔(4)
3) 石油精製への進出 1859年8月27日、エドウィン・ドレイクは、ペンシルベニア州のタイタスビルで、石油を掘り当てた。これが、ペンシルベニア北西部が「オイル・リージョン」として知られるようになる熱狂的な石油ブームの引 […]
ロックフェラーの素顔(3)
2.成功への軌跡 1)生い立ち 幼少期に経験したことが、その後の人生に大きな影響を与えていることを発見することは、珍しくない。それは、精神の奥深くに刻みこまれ、自分では意識していないものの、それに逆らうことは難しい。JD […]
ロックフェラーの素顔(2)
2)カイカット カイカット(Kykuit)は、JDR晩年住んだ邸宅である。さらに、彼の孫の代までが、この家の主となった。この数年JDRについて調べていた私は、この大富豪が一体どのような大邸宅に住んでいたのか、是非この目で […]
ロックフェラーの素顔(1)
はじめに 「ロックフェラー」という名前をお聞きになった方は多いと思う。例えば、「ロックフェラー財団」とか、ニューヨークのマンハッタンにそびえる「ロックフェラーセンター」を通じて。しかし、ジョン・D・ロックフェラー(以下J […]
野口英世最期の地アクラ訪問記(6)
6.おわりに 今回、実際にアクラを訪問して感じたのは、現地の気候と生活環境の厳しさである。英世が滞在した1927-28年当時は、クーラーはなく、水や電気の供給も十分ではなかったはずだ。さらに、英世の51歳という年齢(現在 […]
野口英世最期の地アクラ訪問記(5)
3)リッヂ病院 (Ridge Hospital) 1928年5月、野口英世は、アクラでの研究を終えニューヨークへ戻る前に、ロックフェラー財団のラゴス本部へ顔を出すことにした。ラゴスは、西アフリカ最大の都市で、現在はナイジ […]
野口英世最期の地アクラ訪問記(4)
2)コレブ病院 (Korle-Bu Teaching Hospital) コレブ病院は、1926年、当時の英領ゴールドコーストに住む現地人のための病院として設立された。 写真3 衛生検査技師養成 設立時の名称は、ゴールド […]
野口英世最期の地アクラ訪問記(3)
5.アクラにおける野口英世の足跡 1)ジェームスタウン(Jamestown) 1927(昭和2)年10月22日、野口英世はアメリカ客船スキシア号に乗り、ニューヨークを後にした。スキシア号は、アクラ行きの船の乗り換え地であ […]
野口英世最期の地アクラ訪問記(2)
3.アクラへの道のり 日本から、アクラへの直行便はない。ヨーロッパのロンドン、アムステルダム、ローマ、または、エジプトのカイロ、中東のドバイなどへ行き、そこからアクラへ行く飛行機に乗り換えることとなる。私たちは、最近非常 […]
野口英世最期の地アクラ訪問記(1)
1.アクラ訪問への逡巡 野口英世とジョン・D・ロックフェラーの取材のため、三浦基弘前編集長とともに、アメリカ東海岸を旅したのは昨年5月。この旅の終わりに、「今度は、野口博士が亡くなったアフリカに行ってみましょう」と、三浦 […]
野口英世の遺功を米国に訪ねる(5)
5.ロックフェラー・アーカイブ・センター 英世は、西アフリカのゴールド・コーストのアクラ(現在のガーナの首都)で、黄熱病により亡くなった。 当時、黄熱病での死者は現地で火葬されたり、埋葬されていた。しかし、米国のロックフ […]
野口英世の遺功を米国に訪ねる(4)
4.ウッドローン墓地 野口英世の墓は、ニューヨーク市ブロンクスのウッドローン墓地 (Woodlawn Cemetery) にある。 この墓地は実際に行ってみると、広大で、かつとてもよく手入れのされた美しい場所であった。一 […]
野口英世の遺功を米国に訪ねる(3)
3.ロックフェラー医学研究所と野口英世の評価 約3年間のペンシルベニア大学での勤務、1年間のデンマークへの留学の後、英世はフレクスナーとともに、ニューヨークのロックフェラー医学究所(現ロックフェラー大学)へ移った。 ロッ […]
野口英世の遺功を米国に訪ねる(2)
2.フィラデルフィアとペンシルベニア大学 ニューヨークの空港で、レンタカーを借りる。米国内を旅行するには、航空機とレンタカーの組み合わせが最も効率が良い。今回は、カーナビをオプションとして付けてみると、異国の地でも道に迷 […]
野口英世の遺功を米国に訪ねる(1)
1.アメリカへの道のり 野口英世のアメリカでの活躍ぶりについて書いているうちに、筆者は「英世が過ごした場所を訪れてみたい」と、強く感じるようになった。 2009年5月中旬、次の連載テーマであるジョン・D・ロックフェラーの […]
野口英世とアメリカ(12)
10.人生の不思議 英世の人生を振り返ると、「人間万事塞翁が馬」という言葉が頭をよぎる。彼が、1歳半で火傷をしたことは、大変な悲劇だ。母シカは、一生自分の不注意を責め続けた。「このような左手では、鍬を握れない。百姓はでき […]
野口英世とアメリカ(11)
9. 日本の医学会への反発 もし、英世が日本に止まっていたならば、帝大卒でなく、平民出身であるが故に、十分な研究ができなかったであろうし、また優れた論文を書いたとしても、正当な評価を受けることはなかったであろう。それを英 […]
野口英世とアメリカ(10)
8.アメリカでの評価 英世の伝記には、アメリカでの生活はあまり詳しく書かれていない。彼に関する伝記が多く書かれた時代には、アメリカに調査に行くのが困難であったことが、その理由であろう。 私は、多くの日本人の例からして、ア […]
野口英世とアメリカ(9)
<strong>7.</strong><strong>メリーとの結婚</strong> 1911年4月10日、野口英世は、メリー・ダージスと結婚した。この経緯および、英世の […]
野口英世とアメリカ(8)
6. ロックフェラーと英世の出会いはなかったのか 英世はロックフェラー医学研究所において、看板研究者的な存在にまで上りつめていた。それだけの実績を生み出していたし、所長のフレクスナーからは、愛弟子として扱われていた。私 […]