笑説「ハイムのひろば」36 中野島の歴史を探る

川崎市多摩区中野島の一角に新多摩川ハイムというマンションがある。毎週水曜日、マンションの一室に集まるグループ・・・それは、自主運営するウェブサイト「ハイムのひろば」の制作を担う人たちである。

ある日、メンバーの一人・鏡孝一郎からそこに一枚の古地図が持ち込まれた。鏡は普段、古文書の研究をしているがその活動の中で見つけたものだという。この古地図を見た瞬間、メンバーは全身に血の騒ぎを覚えた。多摩川は・・・南武線は・・二ヶ領用水は・・・? 昔は・・・? 今は・・・? もっとこの町を知りたいと思った。

この町はどのような歴史をもっているのだろう?中野島という町は、いつ頃できて、どのように変わってきたのだろう?側を流れる多摩川とはどのように関わって来たのか、はたまた、立川から川崎まで縦断するJR南武線とはどのように関わってきたのだろうか。いろいろと興味が沸いてくる。そして、ハイムのひろばをつくる会が立ち上がった!

まず、最長老である鏡が提案した。我々ハイムの住民は、このマンションが出来てから移り住んだ者が多く、30年以上住んでいてもこの町の歴史に疎い。従って、歴史をよく知っている地元の人たちに会って話を聞くことから始めるのがよいだろうということになった。

手始めに訪れたのは、直ぐ近くの中学校だった。学校なら、地元の歴史に関して学ぶこともあろうし、町の古い写真なども手に入るのではないかと思ったからだ。2週間後くらいだったか、西野は鏡に同行して中学校を訪れ、校長先生の話に耳を傾けた。結論から言うと、この学校は比較的新しく、また校長も就任して間もないこともあり、地元の歴史を知るための資料にも乏しい状況だった。

次に、鏡が接触したのはこの町に古くから住んでいる数名の方々であった。その中の一人・古谷さんに主旨を説明し、後日数名のメンバーとの面談をお願いしたところ快く引き受けてくれた。当日はいつもの管理棟洋室までご足労願いお話を伺った。古谷さんは、先代から聞いた話、そしてこの地に移り住んでから過ごしたことを思い出しながら話してくれた。

古谷さんとの面談によって何となくではあるが、この町の成り立ちがぼんやりと見えて来た。次にやることは聞いた話を裏付けるため、そしてできるだけ正確な年号を確認するために資料を調べて見ることにした。メンバーはそれぞれ、市立図書館に出向き参考になる資料を調べた。

宮下直近は、多摩川の氾濫筏流しと筏道石仏と石碑などについて調べて詳細を書き記した。西野は、中野島駅と中野島神社JR南部線などについて調べた。山名は、多摩川音頭の歌詞の詳細を調べてその解説していった。こうしてメンバーの4人は、図書館に通いながら少しずつ学び、時には驚き、また時には感心しながら中野島周辺の歴史の紐解きを試行していった。

歴史を深く知るにはそれなりの時間をかけなければならないだろう。上記の内容だけでは、タイトルの「中野島の歴史を探る」は少し大げさに過ぎる。しかし、これらの記事を読んで更に興味を惹かれた向きが少しでもいれば、我々の目的は達成されたと言ってよい。更なる研究は、将来を担うハイムの若い世代に託したい。

蓬城 新

 

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