笑説「ハイムのひろば」15~プロカメラマンの秘密
プロカメラマンの秘密
「ハイムのひろば」がスタートした頃、コンテンツはさほど多くはなかった。制作スタッフの殆どがホームページ作りの初心者だったので、まずは旧サイトのコンセプトを忠実に受け継いでいくことを主眼としていた。メンバーのうち何名かは旧サイトにも携わっていたことで、それは問題なく進めることができた。煩雑になっていたトップページも新しいソフトWordPressを使用することですっきり見せることができた。一般的なマンションの管理組合のホームページであればこれで充分であったと思う。
ただ、西野の考えは少し違っていた。ホームページをひとつ持っているといろいろな楽しみ方ができることを伝えたかった。そこで提案したのがフォトコンテストだった。ひとつには、閲覧者参加型のイベントをやってみせて、住民がただ受け身で見ているだけではなく、自ら参加して一緒に楽しむことができるということを知ってもらいたかった。この企画でたまたま、宮下直近が優勝したことで縁が出来、その後、緑の委員会、蝶図鑑へと繋がっていくとは夢にも思わなかった。
「リニューアル記念フォトコンテスト」の後、引き続いてプロカメラマンによる講演会を開いた。少し前に丁度タイミングよく、一枚の写真が県主催の写真コンテストの賞を受賞したことをタウンニュースで知った。それが、ハイムの住人でありプロカメラマンである野々村成二の作品だった。我々にとっては身近な多摩川の写真もプロの手にかかれば芸術作品になり得るということを知って、この出来事が我々を新しい企画へと駆り立てた。
さらに、いつも利用している管理棟洋室の壁にかけられている何枚かの写真が、この野々村成二の撮影によるものだということを初めて知ることになる。それは、このマンションの建設途中の写真を空撮したものだが、普通は取れない角度からの写真なので建設会社の撮影によるものと思っていた。ところが、これらは野々村氏がヘリコプターから撮影したものであるとわかった。これはネタになると踏んだ山名と西野は、さっそく野々村氏と連絡を取りアポイントを取りつけたのだった。
場所は近所の居酒屋。焼き鳥と焼酎で一杯やりながらのインタビューとなった。経歴やらそれまでの仕事ぶりを聞いて、山名と西野は益々講演会実現への意を強くしていった。やがて、フォトコンテストの結果発表と授賞式を行ったその後、引き続いて講演会を開催することが決まった。昔と違って最近は、誰でも簡単に写真が撮れるようになったことからか住民の関心は高く、当日、会場はほぼ満員となった。プロカメラマンの話が聞けることなど滅多にないことなので人気が出るのも当然だった。
野々村成二は、これまでに撮りためた100枚以上の写真を、スライドで一枚一枚見せながら解説をしてくれた。どの写真もハイムから徒歩圏内で行ける場所で撮られたもので、言ってみれば何の変哲もないものに思われた。ところが、さすがプロの手にかかれば忽ち芸術作品に変わる。1時間ほどかけて説明を聞いた後、質問の時間が設けられた。雷の写真は光ってからシャッターを押しても間に合わず、その前からシャッターを押し続けるという話には驚いた。野々村の解説は、「たまたまうまく撮れた」「偶然のたまもの」といった謙遜の言葉に終始して偉ぶるところなど一つもなかった。あまり多くを語らなかったことが印象的だった。
「流石だね!」「やはりプロは違いますね!」と口々に感想を言い合いながら、参加者は感心しきりで会場を後にした。この企画は大成功に終わった。確かに、野々村の説明でプロの仕事の凄さが分かり勉強になることが多かったが、西野はいまひとつ物足りなさを感じていた。あとでじっくり聴きなおそうと思い説明を録音しておいたので、後日、もう一度写真を見ながらゆっくりと聴いてみた。そして、改めて感じたことを書き留めているうちに、プロの真髄をもっと伝えたいという焦燥にかられた。
何故なら、野々村は「本来、語るべきは写真そのものであって、カメラマンが語るべきではない」と言っているように思えたからだ。結果として、「プロカメラマンの秘密」と題して連載記事を書くことにした。シンメトリー、テーマ性、天使の階段など一般的な言葉もあるが、一部「集合の美」「用意周到な偶然」「予測された必然」など私の勝手な造語や思い込みで記事を書きなぐった。ただただ、数々の写真を見て感じたことを素直に綴ってみたのだ。
原稿を仕上げた後実は、記事投稿前にカメラマンご本人に見てもらい、公開の許可を取るべきかどうか迷った。私の書いた内容が、カメラマンご本人が考えたことと一致しているかどうかわからないからだ。
結局は、カメラマンに尋ねることは止めにした。理由は、この記事は、写真を見て私が受けた感動やさまざまな感情を書いているだけで、カメラマンの意図を書いているわけではない。一部共通部分があるかもしれないしないかもしれない。
記事の題材として写真を使用させていただくことの了解を得ていれば問題はない。そしてそのことを記事内にはっきりと書き示せばよいだろうと結論付けた。
野々村が言葉にせずに、レンズに、写真に語らせたかったものは何なのかを自分なりの解釈で表してみたかった。ここに書いている内容は、全くもって西野自身が感じたことであって、野々村に尋ねたことではない。従って正解なのか不正解なのかわからないままだ。
いや、もしかすると正解は無いのかもしれない。個人個人が自分なりの解釈で感じ取ったことが正解なのかもしれない。芸術作品には、すべてを語らず、最後の部分は受け手の感受性に委ねるということがある。西野は、機会があれば、このことについて一度野々村氏に尋ねてみたいと思っているがその機会はまだない。
~つづく~
蓬城 新