シンゴ旅日記ジャカルタ編(24)  ジャカルタ点描の巻

私が初めてインドネシアに来たのは大学三年の1973年でした。

あれから43年経ちました。ずいぶん発展したなあと思います。

この四月に何年か振りにジャカルタに向かう機中で、イミグレと税関の記入用紙をCAに依頼すると税関申告書しかくれませんでした。「イミグレ用のフォーマットはないの?」と聞くと「これしかありません」とのことでした。きっとイミグレ用のフォーマットは空港の中にあるのだろうと思いました。

しかし、空港に着きイミグレに向かって歩いて行ってもその用紙は置いてありませんでした。

そして、VOA(Visa On Arrival)の窓口で35ドル相当の円を払い、隣のイミグレの列に並びました。

なんとイミグレの窓口ではスタンプを押してくれるだけで申告書を提出する必要はありませんでした。インドネシアのイミグレも簡略化されたものですね。

そして、荷物受取場に向かう前に用を足そうとトイレに入りました。ちょっとビックリしました。

小便器に飛沫防止のプラスチックカバーがしてあるのです。多くの人がいましたので、その時は写真が取れませんでした。それで出張中にほかの場所で見た飛沫防止カバーや、そのほかに目についた便器を紹介します。

ついでに大きい方も紹介します。トイレは昔、日本で厠(かわや、川屋)と言われました。昔から人々は川の上にトイレを設け、川の水で洗ったのです。ウシュレットはそれを日本が技術化したものです。

私もインドネシアの田舎で川の上に設けられた小屋や、田の中に組まれた櫓の上で用を足したことがあります。

川や田の中にお魚さんが泳いでいました。

生物の生態ピラミッドというか、食物連鎖のようなものを感じました。

久し振りのジャカルタ出張では、今年2月に亡くなった代理店の社長のお墓にお参りしました。

彼が好きだったギターを形取った中に花ビラを撒いて敷き、お祈りをしま

した。彼は私よりも5才年上でした。小さな商社を立ち上げたジャワ出身の苦労人でした。私がジャカルタに出張する度にあちこち有名レストランに連れて行ってくれました。かれはギター演奏ができ、歌も得意なので、あるレストランでは舞台に上がり、ビートルズの歌を演奏しながら自ら歌ったりしました。なんでも学生のころはお金がなくてバスの中に仲間とギターを持って乗り込み演奏し学費を稼いだとも言っていました。彼の事務所の自分の部屋にはギターが何本も飾ってありました。また、彼がマウンテンバイクに凝った時には車に自転車を載せて遠くまで彼の子供たちと一緒に出かけたとこもありました。彼がシンガポールに来たときには私の家で食事したりと家族付き合をしていました。

お酒も飲み、煙草もバンバン吸っていた人でした。日本食が大好きでホテルやブロックMの日本食レストランのたいちゃんラーメンの常連客で、お店の主人や板前さんと顔なじみでした。社員には厳しかったのですが、笑うと人懐っこい顔になり、私に日本について子供のように歴史や文化を聞きたがりました。「なぜ日本のラーメンはあんなにおいしいのか」と聞かれ、「それはトンコツが、、」とは、はっきり言えませんでした。数年前に中国で開催された海外主管者会議に呼ばれた彼と会ったきりでした。そんな彼が肺がんにかかり、シンガポールの病院で治療を受けていると連絡を受けていました。そして、とうとう亡くなってしまったのです。

ジャカルタの町のあちこちで見かけるシンボルマークは、私が今興味を持っている家紋に見えてきました。

ジャカルタの大通りは日曜日の午前中は歩行者天国になります。私は5月の出張の時、その大通りに面したホテルに泊まっていましたので、ある日曜日の朝、ホテルを出て北上して独立記念塔に向かいました。若い人たちがグループで歩いていきます。家族連れもいます。まるで日本のお祭りのように屋台や路上販売がたくさん出ていました。

途中では道路を塞ぐかのように多くの人たちが体操をしている場面をありました。子供をまじえた大道芸を見たり、断食前のためかイスラム教主義を守ろうと主張するプラカードを掲げて行進する人たち、お祭り用の大型人形で歩く人たちなどにぎやかなものでした。また、ヒゲメガネをつけてパントマイムをしているおじさんとか、幽霊装束で歩き一緒に写真を撮る一団もいました。初代大統領で演説がうまかったスカルノの立て看板や、初代副大統領ハッタに扮しロウ人形のように動かない人とか、ある場所では、子供が路上に並べてあるおもちゃの拳銃を向けると倒れる格好をする軍人とか、愛国心を呼びかける場面もありました。

扮装ばかりでなく、政府も協会もプロモーションをしていました。

独立記念塔で一服し、ホテルへ戻る途中ではいろいろな形をしたビルに目が留まりました。

ジャカルタのショッピングセンターにも入りました。華僑の所有するビルでしょうか、4階の表示のないところがありました。4階は3Aで表示されているのです。そして別のオフィスビルでは4階どころか13階も表示がなく12Aとなっていました。

飛行機などでもB席がない場合がありますよね。ご存知でしたか。Bは13に通じるからです。

タイでは6(ホック)という数字がひっくり返るの発音で嫌われていました。タイで縁起のいい数字は9(カウ、前進)でした。部下の結納の父親役をしたときは9月9日9時9分にいいなずけの家にお嫁さんに下さいと同行しました。

 

インドネシアというかジャワ島では5が縁起の良い数字のようです。パンシャシラは建国五原則です。また、ジャワ暦は5日単位だったそうです。

ジャカルタ空港で、出発ターミナルで。

付録:シンガポールの空港で

丹羽慎吾

Digiprove sealCopyright secured by Digiprove © 2020
+2

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

CAPTCHA


wp-puzzle.com logo

シンゴ旅日記ジャカルタ編(24)  ジャカルタ点描の巻

私が初めてインドネシアに来たのは大学三年の1973年でした。

あれから43年経ちました。ずいぶん発展したなあと思います。

この四月に何年か振りにジャカルタに向かう機中で、イミグレと税関の記入用紙をCAに依頼すると税関申告書しかくれませんでした。「イミグレ用のフォーマットはないの?」と聞くと「これしかありません」とのことでした。きっとイミグレ用のフォーマットは空港の中にあるのだろうと思いました。

しかし、空港に着きイミグレに向かって歩いて行ってもその用紙は置いてありませんでした。

そして、VOA(Visa On Arrival)の窓口で35ドル相当の円を払い、隣のイミグレの列に並びました。

なんとイミグレの窓口ではスタンプを押してくれるだけで申告書を提出する必要はありませんでした。インドネシアのイミグレも簡略化されたものですね。

そして、荷物受取場に向かう前に用を足そうとトイレに入りました。ちょっとビックリしました。

小便器に飛沫防止のプラスチックカバーがしてあるのです。多くの人がいましたので、その時は写真が取れませんでした。それで出張中にほかの場所で見た飛沫防止カバーや、そのほかに目についた便器を紹介します。

ついでに大きい方も紹介します。トイレは昔、日本で厠(かわや、川屋)と言われました。昔から人々は川の上にトイレを設け、川の水で洗ったのです。ウシュレットはそれを日本が技術化したものです。

私もインドネシアの田舎で川の上に設けられた小屋や、田の中に組まれた櫓の上で用を足したことがあります。

川や田の中にお魚さんが泳いでいました。

生物の生態ピラミッドというか、食物連鎖のようなものを感じました。

久し振りのジャカルタ出張では、今年2月に亡くなった代理店の社長のお墓にお参りしました。

彼が好きだったギターを形取った中に花ビラを撒いて敷き、お祈りをしま

した。彼は私よりも5才年上でした。小さな商社を立ち上げたジャワ出身の苦労人でした。私がジャカルタに出張する度にあちこち有名レストランに連れて行ってくれました。かれはギター演奏ができ、歌も得意なので、あるレストランでは舞台に上がり、ビートルズの歌を演奏しながら自ら歌ったりしました。なんでも学生のころはお金がなくてバスの中に仲間とギターを持って乗り込み演奏し学費を稼いだとも言っていました。彼の事務所の自分の部屋にはギターが何本も飾ってありました。また、彼がマウンテンバイクに凝った時には車に自転車を載せて遠くまで彼の子供たちと一緒に出かけたとこもありました。彼がシンガポールに来たときには私の家で食事したりと家族付き合をしていました。

お酒も飲み、煙草もバンバン吸っていた人でした。日本食が大好きでホテルやブロックMの日本食レストランのたいちゃんラーメンの常連客で、お店の主人や板前さんと顔なじみでした。社員には厳しかったのですが、笑うと人懐っこい顔になり、私に日本について子供のように歴史や文化を聞きたがりました。「なぜ日本のラーメンはあんなにおいしいのか」と聞かれ、「それはトンコツが、、」とは、はっきり言えませんでした。数年前に中国で開催された海外主管者会議に呼ばれた彼と会ったきりでした。そんな彼が肺がんにかかり、シンガポールの病院で治療を受けていると連絡を受けていました。そして、とうとう亡くなってしまったのです。

ジャカルタの町のあちこちで見かけるシンボルマークは、私が今興味を持っている家紋に見えてきました。

ジャカルタの大通りは日曜日の午前中は歩行者天国になります。私は5月の出張の時、その大通りに面したホテルに泊まっていましたので、ある日曜日の朝、ホテルを出て北上して独立記念塔に向かいました。若い人たちがグループで歩いていきます。家族連れもいます。まるで日本のお祭りのように屋台や路上販売がたくさん出ていました。

途中では道路を塞ぐかのように多くの人たちが体操をしている場面をありました。子供をまじえた大道芸を見たり、断食前のためかイスラム教主義を守ろうと主張するプラカードを掲げて行進する人たち、お祭り用の大型人形で歩く人たちなどにぎやかなものでした。また、ヒゲメガネをつけてパントマイムをしているおじさんとか、幽霊装束で歩き一緒に写真を撮る一団もいました。初代大統領で演説がうまかったスカルノの立て看板や、初代副大統領ハッタに扮しロウ人形のように動かない人とか、ある場所では、子供が路上に並べてあるおもちゃの拳銃を向けると倒れる格好をする軍人とか、愛国心を呼びかける場面もありました。

扮装ばかりでなく、政府も協会もプロモーションをしていました。

独立記念塔で一服し、ホテルへ戻る途中ではいろいろな形をしたビルに目が留まりました。

ジャカルタのショッピングセンターにも入りました。華僑の所有するビルでしょうか、4階の表示のないところがありました。4階は3Aで表示されているのです。そして別のオフィスビルでは4階どころか13階も表示がなく12Aとなっていました。

飛行機などでもB席がない場合がありますよね。ご存知でしたか。Bは13に通じるからです。

タイでは6(ホック)という数字がひっくり返るの発音で嫌われていました。タイで縁起のいい数字は9(カウ、前進)でした。部下の結納の父親役をしたときは9月9日9時9分にいいなずけの家にお嫁さんに下さいと同行しました。

 

インドネシアというかジャワ島では5が縁起の良い数字のようです。パンシャシラは建国五原則です。また、ジャワ暦は5日単位だったそうです。

ジャカルタ空港で、出発ターミナルで。

付録:シンガポールの空港で

丹羽慎吾


0

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

wp-puzzle.com logo