シンゴ旅日記ジャカルタ編(26)  シンガポールへ社員旅行(後編)の巻

シンガポール社員旅行の最終日(三日目)は朝から自由行動で、午後3時にホテルに集合してバスで空港に向かうことになっていました。

会社のみんなはガイドさんに案内してもらい買い物に出かけて行きました。

私はシンガポール駐在時代から一番のお気に入りであるチャイナ・タウンにひとりで出かけました。

古い町並みを残す通りを歩き、その周りのビル群の眺めがシンガポールの過去、現在を表していて好きな場所なのです。私はチャイナ・タウンへは地下鉄に乗って行くことにしました。

地下鉄の駅に着いて路線図を見ると駅の数も増えていました、またプラットフォームが地下四階にあり、複雑化していました。チャイナ・タウンの駅に着いて地上に出て、昔の記憶をもとにまずはシンガポールで一番古いヒンズー寺院であるスリ・アマナン寺院に向かいました。そして同寺院の入口から中を覗いたあと、これまたシンガポールで一番古い中国寺院であるシアン・ホッケン寺院に向かいました。シアン・ホッケン寺院に着いて、昔と変わらぬ門をくぐって中庭に入りました。

同寺を一周するように建てられた神々を祀るお堂を歩いていると、インド人の観光客グループが中国系シンガポール人のガイドの英語の説明を聞いていました。昔はインド人観光客は少なかったのに、またインド人が中国人に興味を持って訪問していることに時代の移り変わりを感じました。

シアン・ホッケン寺院を見学し、道路に出て隣の小さな寺院の前を通ると、入口に『オルゴール博物館』と書いた看板がありました。

シンガポールとオルゴールとの取り合わせが不思議だったので見学してみようと門をくぐって中に入って行きました。中庭には三階建ての塔が立っていて、その後ろの建物の片隅に小さな売店がありました。その中に居た人に博物館を見学をしたいと申し入れました。

すると、その博物館には日本人のガイドが居て説明してくれると言われました。しかし、ちょうどその時は昼食休憩の時間で、そのガイドさんが食事に出ているので、13時にまた来てくださいと言われました。

私は近くの韓国料理店でランチ定食を済ませたあと、またオルゴール博物館に向かいました。博物館には日本人ガイドさんが戻って来ており、館内を案内してもらうこととなりました。

オルゴール博物館(Singapore Musical Box Musium)(シンガポール経済新聞のHPより転記)

創設者の大類猶人(おおるい なおと)さんは、愛知県でオルゴール博物館と私設美術館を運営し、京都嵐山オルゴール博物館をはじめ数々のオルゴール館を手掛けた実績を持ちます。

イギリスでオルゴール制作の修業を重ね、師であるグラハム・ウェブさんからシンガポール製のオルゴールを託され、「シンガポールでオルゴール博物館を」と故人の意思を実現するために開館しました。 「1860年頃、当時イギリスの植民地だったシンガポールは、イギリスから時計の機械を輸入し、外箱の生産をはじめ、置き時計や掛け時計を作っていた」と大類さんは言います。

当時は家内手工業程度のレベルであったが、勤勉なシンガポール人たちは、イギリスの時計職人から知識を学び、技術を向上させていったとのことです。

大類さんは「母国から遠いアジアの植民地で暮らす外国人たちは、ナイトライフを充実させたいとの思いからオルゴールの輸入が始まった。そのメンテナンスを手掛けるうちに、いくつかのオルゴールがシンガポールで作られ始めた」と説明します。

同館には大小合わせて200点以上の収蔵品が並び、「THE GEISHA」という曲を演奏するオルゴールも展示しています。

歴史の裏に隠されたさまざまなストーリーを、オルゴールを通じて体感することができ、知られざるシンガポールの歴史を垣間見ることができる内容となっています。

20世紀初頭の豪華客船タイタニック号に乗るはずだったというオルゴールも展示してして、当時の情景を思い描きながら音楽の世界に浸ることができます。

日本人女性のガイドさんは私一人のために一つ一つのオルゴールの詳しい説明や、それらを実際に動かしてきれいな音色を聞かせてくれました。見学時間は約一時間ほどでした。

オルゴール博物館の見学を終えて、ホテルに戻るために地下鉄の駅に向って歩きました。

途中でレンタル自転車の広告を見かけ、中国のようにレンタル自転車が多く走っているのだなと思いました。しかし、道路脇の野原にチューブが外れたレンタル自転車が捨てられるように放置してあるのを見て、レンタル・ビジネスの問題点を垣間見たような気がしました。また、あるところには道路上にカー・シェアリングと書いてあり、電気自動車のような車が駐車していました。

ホテルの近くの地下鉄で降りて、まだ集合時間まで時間があったので、シンガポール時代に好きだったバクテー(骨肉茶)のスープを買って帰ろうと思い、ホテルの周り商店で探しました。しかし、どのお店もインド人が経営するお店だったので見つけることができませんでした。バクテーとは英国の植民地時代に福建省の中国人が港湾やスズ鉱山で苦力として働いていて、その安い栄養補給源として食事の一つが豚を解体したあとの肉片を利用したバクテ-だったのです

ホテルに戻ると皆が徐々に戻って来てバスに乗り空港に向かいました。

出発ターミナルもT-4でした。荷物を預け、搭乗券をもらいイミグレに向かうと、入国時に指紋登録して入国した人は無人の機械に搭乗券をかざすだけで手続きが終わるシステムでした。

私も搭乗券を機械にかざしたのですが、印刷されたバーコードがまだ乾いていなかったのか機械が読み取りませんでした。それで私は検査官のいるマニュアルの方に移動しなければなりませんでした。T-4の空港内ロビーは綺麗でした。私は出発時間までコーヒーショップで持参した日本の小説を読んで過ごしました。

夜9時ころにジャカルタ空港に着き、全員荷物受取場に集合できたのですが、皆は疲れたのか荷物が出てくるまでコンベアのフレームに腰かけて休むなどしていました。私が『危ないからそこには座らないように、またシンガポールと違ってみなきちんとしていないよ』言うと『ここはインドネシアですから』という言葉が返ってきました。私は全員が無事に帰国できたことに安堵するとともに、次回の社員旅行はインドネシア国内にしようと思いました。

 

丹羽慎吾


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