荻悦子詩集「樫の火」より~「白桃」

白桃

 

水蜜桃
そう呼んでいた
桃を入れた竹の籠が
縁台の傍に置かれていた
好きな時に食べなさい
祖母は言ったが
繊毛のある白い肌
手に余る大きさ
柔らかさ
大人の誰かが
どうにかしてくれないことには

澄んだ水が
岸壁の裾をゆっくりと過ぎる
桃は甘く匂ったが
私はほかのことを思っていた
狭い流れの向こう
岩山が水の中から聳え立ち
頂上に松の木
はっきりと見えるその木の下に
母が子供のころに見たように
鹿が現れないかと

鹿は高く一度だけ鳴いた
カンヨー
遥か下の水面に身を投げた
鹿は気絶したかのようだった
いっとき浮いて流され
それを見た人たちが舟を出した

その後のことを母は決して話さない
私もことの終わりを思わない
川の水は澄みわたり
泳いで戻ると
甘い水蜜桃
きれいに上手に食べなさい

一日にひとつ
果肉の白いところ
うっすらと桃色の部分
ほとんど水のように消え
細かい繊維がわずかに残る
どこかはばかるところがあって
黙りがちになる

藍色の薩摩硝子の鉢に
白桃を盛った
そうして一日眺めている
陽ざしに合わせて
白桃は匂い
母の悲しいひと声
鹿が断崖を跳ぶ

荻悦子(おぎ・えつこ)
1948年、新宮市熊野川町生まれ。東京女子大学文理学部史学科卒業。お茶の水女子大学大学院人文科学研究科修士課程修了。作品集に『時の娘』(七月堂/1983年)、『前夜祭』(林道舎/1986年)、『迷彩』(花神社/1990年)、『流体』(思潮社/1997年)、『影と水音』(思潮社/2012年)、横浜詩人会賞選考委員(2012年、16年)、現在、日本現代詩人会、日本詩人クラブ、横浜詩人会会員。三田文学会会員。神奈川県在住。

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