荻悦子詩集「樫の火」~より「球花」

球花

松の花 初めから微小な球形をした粒の集まり 粟
の穂に似た黄色の穂 それが現われるのはいつだっ
たか 裸木ばかりの冬の林に 高い松の木が傾いて
一本だけ立っていた 丘の上を歩きながらその木を
探して目が彷徨う 松毬 落ちていない 林ごとも
うないのだから 粟の穂のような松の花 球花から
球果へ 裸子植物の雌花 花穂が出るのはやはり春
だったろうか さようなら ひそかに告げる別れば
かりが重なり さようなら 私はまだ冬の中にいる
金粉をまぶした小さな松毬 クリスマスリースに飾
ったひとつ それさえ捨てられなくて 棚の上 猿
捕茨の赤い実のそばに置いてある 高い松の木が傾
いて 行く手にひょいと現れるかもしれない 無く
なった林に いつだったか松の木が黄色い穂を出し
ていて 野鳥が集まっていた 花喰い鳥 その名が
口をついて出て 直前まで考えていたことを忘れて
しまった 家の窓から松の木を遠目に眺めた あの
鳥は花を食う鳥にちがいない 鳥の羽根が光を帯び
て見えた

その時に思わなかったことを 今は先に考える 木
には虫がいる 葉に幹に樹液に それぞれ違う虫が
寄る 油虫 貝殻虫 木蜂 髪切虫 蛾の幼虫 虫
のあるものは他の虫を食べる 蟻が虫を食べる 野
鳥が寄ってくる 花の色に惑わされ 枝葉の緑に魅
せられて かもしれない しれないが 葉や花をつ
つきながら 胃に入れるのはたぶん虫やその卵 ま
たは花の密 さようならばかりする 鳥と木や草や
花 人と人 また春が巡ってきたらしい 松毬がひ
とつ 猿捕茨 茨の蔓 蔓に残り乾いていく実 私
はまだ二月の名残りの中にいる くすんだ匂いを纏
っている

荻悦子(おぎ・えつこ)
1948年、新宮市熊野川町生まれ。東京女子大学文理学部史学科卒業。お茶の水女子大学大学院人文科学研究科修士課程修了。作品集に『時の娘』(七月堂/1983年)、『前夜祭』(林道舎/1986年)、『迷彩』(花神社/1990年)、『流体』(思潮社/1997年)、『影と水音』(思潮社/2012年)、横浜詩人会賞選考委員(2012年、16年)、現在、日本現代詩人会、日本詩人クラブ、横浜詩人会会員。三田文学会会員。神奈川県在住。

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