シンゴ旅日記インド編(その63)戒、戒律、戒名の巻

仏教用語には『戒』の付く言葉が多くあります。五戒、八斎戒、十善戒、戒律、受戒、戒壇院、そして戒名などなど。また『一罰百戒』と言う言葉もあります。
戒とは『いましめ』です。仏教を信じる人が個人で守らなければならないルールです。
サンスクリット語のシーラーの訳で、意味は『こころの持ちよう』です。
鉾を両手で捧げる様子を漢字にしたものです。
五戒とは『不殺生(生き物を殺すな)、不妄語(嘘をつくな)、不偸盗(盗むな)、不邪淫(女性と不適切な関係を持つな)、不飲酒(酒を飲むな)』です。
これに三戒『正午以降食事をするな、身を飾るな/香水をつけるな、ベッドでなく床の上に寝なさい』(この三戒は月に一回守ること。)がありこれをあわせて八斎戒と言います。

お釈迦様自身は弟子に対してそんなにきつくルールを運用しなかったようです。
しかし、仏教が教団として組織化されて行くに従い、次第に戒は増えて正式な僧が守らなければならない『具足戒』では男子は250、女子は348となって行きました。

戒律の『律』は教団として出家僧が守らなければならない決まりです。
律はサンスクリット語ではヴィヤナです。
個人のルールである戒を破っても罰はありませんが、教団のルールの律を破った僧にはいろいろな罰が与えられました。
釈迦没後100年が経つと、この戒律の中の『僧侶の財産の所有禁止』という項目をめぐって上座部と大乗とに分かれたのです。これを『根本分裂』と呼びます。

仏教の典籍を集大成したものを三蔵と呼びます。その中に『律蔵』があります。
経蔵―釈迦の説を記録したもの
律蔵―戒律を記したもの
論蔵―経、律について後世の仏教者が注釈を施したもの
そして、三蔵法師とはこれら三蔵を会得した僧侶のことを言います。

仏教は中国から韓国へ、そして韓国から日本へと6世紀に入って来ました。中国に仏教が伝わったのは1世紀です。
記録好きな中国人ですから伝えた人の名前が残されています。
迦葉摩騰(かしょうまとう)と竺法蘭(じくほうらん)という西域からやってきた人でした。
当時、中国では貴族は儒教、庶民は道教が信仰の対象でした。
しかし中国人の好奇心は仏教にも向かいました。
経典の翻訳、現地での入手などを積極的に行い、仏教を系統的に整理して体系付けました。その過程でお釈迦様の仏教が中国式に変えられて行きました。
そして中国で変換された仏教が日本に持ち込まれたのです。

また、中国では律を守って行けば悟りにたどりつけるということで律宗という宗派が生まれました。その中国の律宗の僧の鑑真(688~763)が754年に日本に招聘されました。
鑑真は5度の海難事故に合い、そして失明しながらも日本に来ました。
そこまでして日本が鑑真を招聘した理由があったのです。
それは当時の日本の僧の認証制度が曖昧だったからです。
僧になるためには厳しい戒を守ることを誓う『受戒』と言う儀式があります。
中国では受戒の儀式は『三師七証』と言って、三人の受戒僧と七人の証人が立ち会って行うなど儒教の影響を受けて格式ばっていました。
しかし、当時の日本では受戒があいまいで、中国に行く日本の留学僧がその受戒を受けていないため中国仏教界から『正式な受戒を受けていない以上、僧と認めるわけにはいかない。』として修学を断わられるトラブルが相次いだのです。
そこで朝廷は受戒を与える僧として鑑真を招請したのです。
鑑真はそんな日本の切羽詰った事情で来日し、東大寺大仏殿前で受戒式を行ったのです。
そして境内に戒壇院を建てたのです。
戒壇とは受戒を授けるための壇のことです。
戒壇院は東大寺のほかに下野(栃木県)の薬師寺、筑紫観世音寺(福岡県)にも設けられ、受戒の機会が広がりました。この三つを中央戒壇、東戒壇、西戒壇と呼びます。
受戒をパスすれば高級国家公務員になれるのでので、かなり難関のようでした。
天台宗を興す最澄(767年~822年)は785年に、真言宗を興す空海(774年~835年)は795年に東大寺戒壇で戒律(具足戒)を受けています。なお、鑑真はその後、自分が設立した唐招提寺にて律宗を広めるために戒律について講義を行いました。
しかし、受戒制度はその後の歴史の中で形骸化して行きました。
最澄は乱れた奈良の南都戒壇から決別する必要があるとし、朝廷に比叡山にて大乗戒壇を設ける必要性を具申しました。
大乗戒壇が認められたのは最澄が亡くなったその没後8日目でした。

受戒の時に戒名が授けられます。仏弟子になるため俗名から仏名に変わるのです。
この戒名の制度が中国でつくられました。
戒名は本来は生きている時に与えられるものです。
日本の天皇も受戒を受けたので戒名を持っていました。聖武上皇は勝満です。
また葬儀も聖武天皇から江戸末期の孝明天皇まで仏式でした。
京都に多くの天皇の菩提寺である泉涌寺と言うお寺があります。
また、昔は宮中にも仏壇があったのです。

現在の日本では僧を除いて皆、死後に戒名が付けられます。
これは日本だけのことのようです。いつからこのようになったのでしょうか?
それは徳川幕府が切支丹対策のために庶民まで一人残らず、戒名をつけることを義務つけたからです。
徳川幕府は開祖家康が一向一揆で苦労しました。
また切支丹対策にも悩んでいました。
それで各宗派に本山―中本山―直末寺―末寺とピラミッド型の組織をつくり、本山に末寺までの住職の任命と財産官吏を任せる代わりに、本山の責任者の大僧正は幕府が任命権を握る制度を作りました。
これはある程度効果をあげましたが、1637年にキリスト教徒3万人による島原の乱が起こりました。
この乱は幕府軍により全員殺され終結しました。
しかし、時の三代将軍家光は真っ青になり、一人一人を仏教徒として管理する寺請け制度を作ったのです。
お寺が『この者は切支丹でない』という証文を発行するのです。
この証文は旅行のための関所手形の発行や、嫁入り時には必ず必要となりました。
そのようにしてお寺の権力が大きくなっていったのです。
このため戸籍に相当する『宗門人別帖』が作られ、一度ある宗派に属すると孫子の代まで宗旨替えが出来なくなっていったのです。
つまり、切支丹でないという証文の発行→葬儀を菩提寺で行うこと→仏弟子であることの証明→死後戒名→過去帳への記入などとお寺が庶民をコントロールする道具になる制度となりました。
本来、戒名は二文字ですが、飾りがいっぱいついて『院(殿)号+道号+戒名+位号』から成り立つようになりました。
なお、浄土真宗や日蓮宗では戒名と言わず、『法名』、『法号』と言います。
浄土真宗では死者は既に阿弥陀様の本願により救われているので受戒がなく、日蓮宗でも受戒の儀式そのものが無いからです。

戒名(法名、法号)には俗名から一文字を入れるのが普通になっています。
有名人の戒名は次の通りです。
慈唱院美空日和清大姉 美空ひばり(日蓮宗?また本名は加藤和江です。)
陽光院天真寛裕大居士 石原裕次郎
映明院殿紘國慈愛大居士 黒澤明
法性院機山信玄 武田信玄(俗名は晴信)
大光院力動日源居士 力道山(日蓮宗?)
清閑院釈文帳 松本清張(浄土真宗は男性は院号+釈○○です。)
遼望院釈浄定 司馬遼太郎(本名は福田定一、浄土真宗)
文献院古道漱石居士 夏目漱石
新免武蔵居士 宮本武蔵
露伴 幸田露伴
さらに自分で戒名を残したこんな人もいたのです。
立川雲黒斎家元勝手居士(立川談志)

位牌は中国の道教+日本の神道+日本の仏教から生まれたものです。
日本には神が光臨するための物体=依代というものがありました。門松、榊、神輿などです。
古代中国には木札に自分の官位姓名を書いて立身出世を願う風習がありました。
その二つが日本仏教に入って来て位牌となりました。

戒から位牌まで一気に飛んで来てしまいました。これにお葬式、仏壇、お墓となれば戒からどんどん離れて行ってしまいますのでここで止めます。

今回は『なぜ鑑真がそんなに苦労をしてまで日本に来たのか』を知りたくて、調べて書いてみました。
鑑真の来日の裏には日本の政治、宗教の事情がありました。
仏教を通して日本の特殊性、大国への劣等意識、江戸時代の統制、明治維新の性格などなどいろんなものが見えてきました。
そして今の日本の経済、政治、宗教の状況が重なって見えました。
日本って仏教伝来から1500年近くたってもあまり変わらないものだと思いました。

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