中井久夫『樹をみつめて』から 「ケヤキ」(その1)

ここ数日、ハイムの中央広場を囲むように立つケヤキの枝先に急激な変化が起こっているのにお気づきでしょうか。まさに春を感じさせる自然の営みです。

次の文は、過日「緑の環境委員会」に掲載した、医学者にして文筆家の中井久夫氏のエッセーから抜き書きしたものです。科学者らしい眼で、自然とケヤキを細やかに観察し、記しておられます。ちょうど今の季節にわれわれの心に染み入るような描写です。2回に分けてお送りします。

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ケヤキは、早春の芽吹きも、初夏の盛んな勢いも、秋のすがれゆく様も、冬の繊細な枝模様もいい。ケヤキとの出会いは、その芽吹きのふしぎさに触れた十九歳の春に遡る。

大学の分校は宇治にあったので、下宿は山科から六地蔵に向かう道端の何でも屋の二階であった。江戸時代には私の前の路を多くの荷物が人の背、牛の背に乗って運ばれたであろう。この道は日本海岸の産物が連水運搬で運ばれた時代、琵琶湖と淀川水系を繋ぐ陸路部分だからである。私の下宿した時はまだ道沿いの家並みの他は一面の稲田であった。

道をへだててかなり大きなケヤキの木があった。窓から冬枯れの姿が見えた。春のはじまりの気配が感じられるころ、大枝が一本だけ、梢に小さな浅緑の芽をつけた。その枝は朝日が一番先に当たる枝であった。他の大枝の梢はどれもかたくなに沈黙を続けていた。

朝日を浴びて、その大枝はすこしずつ緑色のもやを濃く煙らすようになり、ついに枝先の樹冠がこんもりして、歯のそよぎが眼にみえるようになったころ、この大枝の繁りのそばで第二の大枝の芽吹きが始まった。

一番先に朝日を浴びる位置の枝の光合成によって他の枝の芽吹きの準備を支え、時が満ちると次の一枝の芽吹きが始まるとは。何と巧みなと私は感じ入った。しばらく後には残りの大枝がいっせいに芽吹いて、さきがけの枝がどれかわからなくなった。

(その2に続く)

中井 久夫(なかい ひさお、1934年1月16日 - ) 日本の医学者、精神科医。専門は精神病理学、病跡学。神戸大学名誉教授。医学博士。文化功労者

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