天才と凡人~中川牧三―近代日本の西洋音楽の歴史を創った人物~14(最終回)

* 「天才とは天性の才能である。」(広辞苑より)
結果だけを見て、凡人には想像も出来ないことを成し遂げる人間を私達は単純に天才と呼んでしまう。~「天才と凡人(1)」より~
*「シューベルトは梅毒の病魔が脳を侵し、その正常と異常の狭間で『冬の旅』が作曲された。天才と狂気が作り上げた作品をどのようにして解明できるのか?解明?それは無駄なことである。・・・」と長い間(現代の医学でシューベルトの梅毒は完治していたと証明されるまで)考えられていたことでも分かるように、天才と凡人は全く別世界の人間のように考えられてしまいがちである。~「天才と凡人(1)」より~

*オペラ:ミラノへ着いたその晩、近衛氏と二人でスカラ座でヴェルディの『リゴレット』を観劇。
近衛氏はドイツのオペラとは全く違うイタリアオペラに感動され、「日本にはまだこういう立派なオペラはない。何としてでも、これを日本に持って帰れ。君ならやれるから、そのまま持って帰れ」
と言われる。中川先生でなくとも誰でも無理と思うことである。独唱、重唱、合唱、オーケストラ、
芝居、バレエまで全てである。
「そんなことはとってもできない。一人でやるなんて無理です」と答える中川先生に近衛氏は「一人だからできるんだ。一人でやれ」と命じられたのである。~「天才と凡人(2)」より~

*私が中川先生の偉大な特徴(天才性?)として注目していることに、先生の驚くべき人脈がある。世界的な音楽家なのだから日本や海外の著名な演奏家や音楽大学教授(学長を含む)とお親しいのはまだ理解出来るが、外交官・外務省関係者・医学関係者・マスコミ関係者・経済界の重鎮・・・
このように私が知りえただけを考えても、“私はいったいどういう方に師事しているのか”と恐れることすら超越してしまった無感覚さで当時は先生との雑談を楽しんでいた。~「天才と凡人(3)」より~

*私の大芸大時代はといえば専門分野の声楽研究に没頭、そして仕事(ピアノ・声楽・合唱の指導、発表会の開催)にも全力投球。つまり大学の一般教養等は履修届けを出し、試験を受けられるだけの出席日数を確保して試験前の2日だけ参考書を読んだのみであった。受けた試験の単位は全て取得したが、勉強したという実感は全く無かった。
それでは大卒として情けなく、恥ずかしい。「天知る、地知る・・・」である。
NHKのオーディションに通っても、二期会の研究生になっても、それとこれは話が違う。
それで単なる教養もと軽く考えて入学した慶應(通信課程)であるが、教科書をみて「ギョギョッ!」となった。日本語(全て旧字体)が読めない!これでは3足のわらじに全力投球は無理と観念した。
が、中川先生はそのことをお知りになるや「慶應は卒業しなさい!やめてはいけない!慶應は普通の大学とは違う。絶対にやめてはいけない!」と何度も言われた。何故、普通の大学と違うのか、その理由は「同窓会が凄いのだ」としか教えてはくださらなかった。~「天才と凡人(3)」より~

*慶應同窓会組織三田会の存在とその凄さである。その三田会の存在感・凄さは、福澤諭吉の三大事業(慶応義塾、時事新報、交詢社)である交詢社構想を引き継ぐ組織となっていることから生じていると考えられるのであるが、その交詢社構想を知る上で社是「知識交換世務諮詢」を再度(会報第10号“杉本:「交詢社」と「シューベルティアーデ」”参照⇒参考資料)考えてみようと思う。
そこに書かれている「知識交換」はともかく、「世務諮詢」とは何であったか?
~「天才と凡人(3)」より~

*慶応義塾とは近世日本(江戸)から近代(明治)という大きな時代の変化の中で、文明を新たに造り出すという課題と「独立自尊⇒国家独立」に象徴される近代人と近代国家への脱皮を目的とした人作りのための結社であったと考えるのが妥当であるが、当然、交詢社構想もこの大きな目的の延長線上にあったはずである。しかし、現在存在する交詢社は単なる紳士の社交クラブと化し、その精神は慶応義塾同窓会組織(三田会組織)の精神として中川先生の言われる「凄さ」となっているのである。
独歩孤立でご苦労された中川先生の必死のお言葉が「三田会」の必要性であったとは。
~〔天才と凡人(3)」より~

*明治・大正から昭和の激動の時代、日本の音楽の歴史はどのような変革を遂げていったであろうか。
昭和11年(1936年)2・26事件以後日本は戦争への道を突き進んだ。
日本国内では軍歌しか演奏できない西洋音楽の暗黒時代にも、先生は吹奏楽団を組織し円山公園の音楽堂で土曜日ごとにコンサートを開催された。(官憲に刃向かうのではなく国策に沿う形で「軍艦マーチ」の時代に「ラヴェルのボレロ」や「アイーダ」や「ウイリアム・テル」などを演奏された)。そして国民の意思を統一して士気を高めるために吹奏楽連盟や合唱連盟も作られた。
しかし、活躍の場を失っていた若き日本の芸術家たちは、先生(軍部)からの招聘により上海という地に移り自由な西洋音楽の牙城を守りぬいていたのである。~「天才と凡人(4)」より~

*「天才とは1%のひらめきと99%の努力である」
天才についてのエジソンの有名な言葉であるが、ここで言われている努力とは何だろうか?
可能な限りの知識や技術の習得?・・・知りえる限りの知識や情報を駆使しての研究?・・・
~「天才と凡人(5)」より~

* 福澤先生と中川先生の重要な共通点として「洋行」と「外国語の習得」が挙げられる。
江戸時代から明治にかけて英語のできる人間は殆どいなかった。貧しい下級武士の福澤先生が三度も洋行して世界の文明を見聞できたのは、英語に着目し習得されたゆえであった。
~「天才と凡人(5)」より~
*中川先生が28才でドイツとイタリアに行かれることができたのは、近衛家と親戚付き合いをしておられたご両親のお陰であるが、第二次世界大戦中に召集将校(最初は少尉)でありながら、いきなり南京総司令部参謀部付幕僚兼報道部の将校(支那派遣軍総司令部参謀付幕僚及び上海陸軍報道部スポークスマン)として上海での日独伊外交を遂行されたのは、“英語、ドイツ語、イタリア語、ロシア語、中国語が出来、かつ外国に滞在した経験がある者”という理由によるものであった。
~「天才と凡人(5)」より~

お若くして亡くなられたが、生前“天才と言われる方の頭脳の構造はどうなっているのですか”と伺ったことがある。お偉い先生にとんでもない質問をしてしまったものであるが、先生は丁寧にお答えくださった。(故三浦和男教授への質問:哲学者・元慶應理事・元通信教育部長)
「僕は天才なんかじゃないよ。確かに語学では20ヶ国語近く話せるし論文程度なら全ての言語で読める。しかしそれは誰でもやればできることだ。例えば英語が完全にできていれば、ヨーロッパ圏の言葉はスペイン語でもフランス語でもイタリア語でも、一日二時間くらいの勉強で一ヶ月もあればマスターできる。
それは特殊な能力ではなく、他国の言語を日本の方言のような感覚で捉えて勉強すればいいんだ。
全てを全く別の言語として勉強すれば恐ろしいくらいの時間と労力がいる。英語や日本語と文法や文字の異なるロシア語や中国語、サンスクリット語、等は僕でも2ヶ月位はかかったよ。」とのご説明であった。「1ヶ国語が1~2ヶ月でマスターならそれはまさしく天才です!」と驚くと「違う!
やり方だ!」とたしなめられた。
すぐに洗脳されてしまう単純頭脳の持ち主である私はそのまま納得して、“天才というのは自分の持つ基礎知識をどのように組み立てて使うか、だけで決まることなのだ。それで、無知か又は知識のみで応用力の乏しいような人が天才という言葉をつくるのだ”と思うことにした。
しかしその後(10年くらい後だったろうか)、「人間とは何か」という先生の講義で基礎知識の応用(組み立て方)というのが、いかに凡人にとって困難なことなのかを知ることになるのであるが。
~「天才と凡人(5)」より~
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*以上、タイトルを「天才と凡人~学問研究に対する姿勢~」として、思い浮かぶまま(1)~(5)
まで書いてきたが、今そこからこのように私が重要と思える事項を抜き出してみると、天才の要素を持つ人々が偉人となるためには、“「天才」とは「天性の才能である」「天才とは1%のひらめきと99%の努力である」”という言葉から思い浮かべた、天才といえる方々の〔学問研究に対する姿勢〕を調べることだけでは、到底真の意味での天才についての回答が得られないことに気付いたのである。
福澤先生と中川先生がなされようとされたこと、それは日本という国が近代国家として新たな文明を作り出すという大きな構想(それが国家と音楽という違いはあっても)を持たれたことである。
そのための手段として、
福澤先生は三大事業(慶応義塾、時事新報、交詢社)による国民の啓蒙と新たな文明を作り上げていく人材の育成を考えられた。
中川先生は、やはり西洋音楽の世界では後進国でしかなかった、日本の西洋音楽文化の新たな発展への脱皮のために、ご自分の資力(親の資力)や権力(著名な作曲家・指揮者であったプリンス近衛と軍部内でのお立場)を駆使して、大正時代だけでなく、日本国内では“西洋音楽暗黒の時代”といわれた激動の昭和時代にも、(上海という地で)日本の西洋音楽文化を守り抜かれたのである。
日本国内にいては分からない西洋列強の文明に触れられた先生方が、西洋列強に負けない国や文化をつくるために最も重要と考えられたことは・・・・・・
学問ならやり方(基礎知識の組み立て方)で優秀さ(天才性)は求められるが、新しい文明をつくるという構想実現のためには、“如何に人材・人脈を造るか”が最重要と考えられたことである。
そう考えると、敗戦後演奏家志望者をどんどん西欧の著名な音楽院に送られた中川先生に対し、
福澤先生の場合、先生の絶対的な天才性というのはどうしても「交詢社構想」に行き着いてしまう。
その構想実現に成功された先生とその後継者達によって、今もその門下として新しい文明を担う人材が次々に誕生し、又その精神は次代の天才をも育んでいるのである。       (完)

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~参考資料~
〔交詢社〕と〔シューベルティアーデ〕(1)
杉本 知瑛子

〔交詢社〕とは福澤諭吉の三大事業(慶応義塾、時事新報、交詢社)の一つとして、福澤が在野で取り組み続けた事業である。
時事新報は明治から昭和(昭和11年末に解散)にかけて一流の日刊新聞として存在したのだが、
現在も存在する福澤が手がけた事業は「慶応義塾」と「交詢社」だけである。
社是「知識交換世務諮詢(ちしきこうかんせむしじゅん)」から命名された交詢社とは何を目的として設立されたのか?同窓会案から交詢社構想に変化し、福澤諭吉が三大事業の一つとして取り組み続けた「社交クラブ」交詢社とは何であるのか?
それを知るためには、交詢社以前に福澤が創立した慶応義塾とは何かをも知る必要があるようだ。
“慶應義塾とは単なる学校ではない~”故中川牧三先生(元日本イタリア協会会長)からよく聞かされていた言葉である。当時は安易に聞き流していたお言葉であるが、では慶應義塾とは?と意識は交詢社からどんどん迷路に迷い込んでいく。

安政5年(1858)福澤は江戸築地鉄砲洲の中津藩奥平家屋敷内の長屋を借り蘭学塾を始めた。
10年後(1868)の慶應4年4月(明治への改元は9月)芝新銭座に移転し時の年号にちなみ「慶応義塾」と名づけた。「芝新銭座慶応義塾の記」という宣言書を掲げての出発であった。

「芝新銭座慶應義塾の記」は以下の文章で始まる。
「今ここに会社を立て義塾を創め、同士諸子相共に講究切磋し、以って洋学に従事するや事本と(もと)私に非ず。広くこれを世に公にし、士民を問わずいやしくも志あるものをして来学せしめんを欲するなり」

*ここでの「公」と「私」の特徴について。
①同士による共同体、「会社」の公共的機能の認識。
「会社」とは企業という意味ではなく、自発的集団を指している。江戸時代に生まれた和製漢語(馬場宏二『会社という言葉』)で、company,corporation,の訳語として生まれたものである。
「学界・学芸集団・同士等特定階層の自発的集団・広く仲間や集団」として今日の「社会」の意味で使われたらしい。『西洋事情初編』には商人・学校・病院といった各種の「会社」が書かれてある。
富田正文『考証 福澤諭吉』においては「『芝新銭座慶應義塾の記』における「会社」とは英語で
association,society,とかいう意味である」と説明されている。
②洋学という学問に従事することは、単なる私事ではないということ。
③入社資格が身分ではなく「志」の有無にあること。

こうして見ていくと、慶応義塾とは近世日本(江戸)から近代(明治)という大きな時代の変化の中で、文明を新たに造り出すという課題と「独立自尊⇒国家独立」に象徴される近代人と近代国家への脱皮を目的とした人作りのための結社であったと考えるのが妥当であろう。
当然、交詢社構想もこの大きな目的の延長線上にあったはずである。
社是「知識交換世務諮詢」を見てみよう。知識交換はともかく、世務諮詢とはいったい何か?

「その繁多なること名伏に堪へず。之を世務という」(「交詢社設立之大意」)

「此間違の頂上に達したるものは、国法に訴るのほか路なきが如くなれども、或は亦、相談諮詢の方便を以って、事の緒に就くものも少なからず。本社もとより代言の事を為すに非ず。唯人事の平穏に緒に就く可きものをして緒に就かしめんと欲するのみ」(『同』)

「茫々たる宇宙、無数の人、互いにこれを知らず、互いにこれを他人視して独歩孤立するは、最も淋しき事なり」(『同』)

「世務」とは商取引や金銭貸借、売買、雇用、など人間が社会の中で結ぶ関係の全てを指しているようである。住田孝太郎氏は「近代日本の中の交詢社」の中で、“世務諮詢とは旅行の際に一泊の宿の貸し借りをするといった社員同士の相互扶助にまで及ぶ”と述べている。
では、慶應義塾(学校という結社)や交詢社(社交クラブという結社)という政府以外の自発的結社の機能と必要性を福澤はいったい何時どこで認識したのであろうか?
1862年の渡欧により先進文明諸国の実情に接し、特にイギリスにおいて政府以外の自発的結社(学校・病院など)が種々の公共機能を果たしている様子に福澤は強い印象を受けている。
それらは『西洋事情初編』の中に記載され日本にも伝えられている。この時の結社の必要性という認識が慶応義塾、そして後年の交詢社設立へと繋がっていくと考えられるのである。
銀座にある交詢社ビルディングの瀟洒な佇まいは、いかにも選ばれた紳士達が集うに相応しいものである。明治から平成へと連綿と続く歴史はあるが、交詢社という単なる?「社交クラブ」が、福澤諭吉の三大事業の一つとして慶応義塾と共に現存するのは驚きである。 ~〔「交詢社」と「シューベルティアーデ」(1)〕より~

*交詢社構想は慶応義塾の同窓会案から変化したものである。
慶應義塾(学校という結社)とは“①近世(江戸)から近代(明治)という大きな時代の流れの中で文明を新たに作り出す。②「独立自尊⇒国家独立」に象徴される近代人と近代国家への脱皮を目的とする人作りをする”結社である。交詢社(社交クラブという結社)構想もこの大きな目的の延長線上にあったと考えられるが、しかし現代の交詢社は選ばれた紳士のための単なる「社交クラブ」となっている。
福澤諭吉の慶応義塾から交詢社に至る偉大な構想は、慶應の同窓会組織・三田会活動として現在も尚、連綿と受け継がれていると感じるのは私だけであろうか? ~〔「交詢社」と「シューベルティアーデ」(3)〕より~

杉本知瑛子

大阪芸術大学演奏科(声楽)、慶應義塾大学文学部美学(音楽)卒業。中川牧三(日本イタリア協会会長、関西日本イタリア音楽協会会長))、森敏孝(東京二期会所属テノール歌手、武蔵野音大勤務)、五十嵐喜芳(大芸大教授:イタリアオペラ担当)、大橋国一(大芸大教授:ドイツリート担当)に師事。また著名な海外音楽家のレッスンを受ける。NHK(FM)放送「夕べのリサイタル」、「マリオ・デル・モナコ追悼演奏会」、他多くのコンサートに出演。

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