アルゼンチンを感じる映画たちへのツブヤキ その5

アルゼンチンの映画を観ていまして、私があれ!と思いましたことの幾つかの内の二つについてです。

アルゼンチン・タンゴがメインに描かれる作品が以外に少ないのではないかしらと思います。そしてナチス・ドイツとの関係が織り込まれた作品も多いように感じます。

アルゼンチンの旧宗主国はスペインなのに何故?ドイツ、そして何故?ナチス。
戦犯のアイヒマンがアルゼンチンで発見確保されたから?でしょうか。それ以外にも都市伝説てきなことも幾つもあるようです。

ちょっと、アイヒマンに関する映画で私が観ましたモノを幾つか参考にあげてみます。
※本文中の「」は邦題、()内の数字は日本公開年です。
「アイヒマンを追え!ナチスがもっとも畏れた男」(2015)、「アイヒマンショー歴史を写した男たち」(2015)、
「ハンナ・アーレント」(2012)、「スペシャリスト/自覚なき殺戮者」(1999)、
「検事フリッツ・バウアー、ナチスを追い詰めた男」(2016)、「顔のないヒトラーたち」(2014)

戦後の西ドイツ、自らのドイツ国民の手でナチス戦犯を裁こうとする西ドイツ検事たちとサモド(イスラエル諜報特務庁)との攻防と時には冷やかなやり取り。
そしてエルサレムにて裁かれることになるアイヒマン、その裁判で明らかになるアイヒマンの実像が描かれている映画たちです。

その裁判を傍聴してレポートするハンナ・アーレント、
ハンナ・アーレントは女性でドイツ人でユダヤ人哲学者です。
彼女のレポートでは、アイヒマンは悪魔でも怪物でもなく、大衆のひとりで平凡な人間。彼をあの所業に突き進ませた闇の根源は我々の中にもあるモノだ。特殊なモノでも特別なモノでもない。

その後これは論争になり、ハンナ・アーレントはユダヤ人でありながらユダヤ人社会から攻撃を受けることになります。
これはいったいどの様なことなのか?映画を観てみて自身の解を一旦導いてみるのも良いかもしれません。

そして、アルゼンチンタンゴです。
アルゼンチンの映画でない作品だと、アルゼンチンタンゴがストーリの中心にあってドラマチックになっていることがあります~(^-^)。何故?不思議です。

「ラストタンゴ」(2015、ドイツ製作)、「タンゴリブレ」(2012、ベルギーとフランス製作)などは、
ヨーロッパが持つアルゼンチンタンゴへのなにがしらかの憧れがロマンチックな仕上がりさせるのでしょうか?

私はアルゼンチンタンゴをアルゼンチンを代表する舞踊のようにも思っていますが、実のところはそうでもないのかもしれません。

それはフラメンコがスペインを代表する舞踊ととらえられがちですが、フラメンコはスペイン南部アンダルシア地方の特徴的な舞踊です。
スペインもカタルーニャ、バスク、ガリシア、アラゴン、アンダルシアなどなどで風俗や習慣や文化も違いますものね。

このふたつの舞踊、
アルゼンチンタンゴとフラメンコは同じスペイン語圏の舞踊ですけれども、よ~くみますととても対照的でもあるように感じます。

アルゼンチンタンゴは、
とても男女が密着して官能的に踊るように見えるのですが、舞踊手の男女間の距離は常に一定で決して必要以上の密着はないように踊っているように思います。

官能的に思えた男女の距離感とその舞踊は、途端にその様子が冷静で冷徹にさえ思えてきます。

正確なところを私は調べられていませんが、一説に昔はアルゼンチンタンゴは男同士で踊っていた(らしい)。それは意中の女性にどちらが相応しいかを競うためにガウチョが男同士で踊った?競った?(らしい)。

一方、スペインのフラメンコは女性舞踊手(バイラオーラ)と男性舞踊手(バイラオール)は決して相手の身体には触れないし物理的な距離が存在するのが見てとれます。

舞う女性が自身の内面の美しさをまるで「どうよ!」と言わんばかりに舞踊のなかで出しているようです。でも決して女性は誘っているわけではない。「私に魅せられるのはあなたの勝手、私は知らないわ関係ないわ」と言う感じがします。

そこに情熱の表面温度の焦げるような高さや、トロリとした濃密な情や業の深さを感じるのは何故でしょう。不思議です。

アルゼンチンタンゴとフラメンコは、こんなにも違う感じがします。不思議ですね。

△△その6へ、つづく~。

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