シンゴ旅日記ジャカルタ編(6)  オジェック(OJEK)の巻

散歩しながら考えるの巻 OJEK (2017年2月記)

昨年3月インドから帰国し、日本でのおいしい料理を食べすぎて、体重が大きく増えました。

その11月にインドネシアに赴任してから、その体重を減らすため散歩をしています。

散歩と言っても住んでいるマンションの周りの限られたコースを朝食前に歩くだけです。

しかし、その途中でいろんな人や物に出会います。

マンションを出てまず出会う人たちは、朝早くから客待ちしているオジェック(OJEK、オートバイタクシー)の運転手さんたちです。

朝はマンションからの通勤客、その次はマンションに併設されているスーバーへ来る買い物客を待っているのです。

また、マンションと道路を挟んだ向かいに大きな教会があり、土日はそこへお祈りに来る人たちがお客様になります。

駐在員仲間からはオジェックは転倒したり、車とこすったりして危ないから乗らない方がいいよと忠告してくれます。

しかし、私はバンコク時代もマンションから近いところでの買い物はオートバイタクシーを使い、買い物のあとは両手で紙袋を下げ、道路を曲がるときはその方向に体を傾けたりして気楽に乗っていました。それで、こちらでもオジェックを時々利用しています。

この前の雨の日は、マンションで借りた傘をさしてオジェックの後部座席に乗ってモールに行き、帰りは左手に荷物を抱え、右手は傘をさしてオジェックに乗って帰ってきました。

しかし、散歩に出始めたころに運転手さんたちに「スラマット・パギ(おはよう)」と声をかけると、彼らは私に乗っていかないと誘いました。

私は歩く格好で両手を大きく前後に振って「クセハタン(健康)、オララガ(運動)」と返事して通り過ぎました。そんなことが数回続くと、挨拶をすると彼らはジョッギングのジェスチャーをしたりして答えてくれるようになりました。

ジャカルタ市内には配車オートバイタクシーであるゴージェック(GO-JEK)があります。

スマホで予約するものです。ウーバー(Uber)タクシーのオジェック版です。

OJEKとGO-JEK、インドネシア人もシャレ大好きですよね。

インドネシアの二輪車の年間の販売台数は600万台(2016年)です。

ちなみに日本の二輪車の販売台数は1983年の320万台をピークに下がり続け、最近は40万台を切ったようです。そういえば、昨年はシェアー一位のホンダと二位のヤマハが50㏄スクーターの生産、開発で提携を検討するというニュースがありましたね。

一方、インドネシアの四輪自動車の販売台数は2016年が106万台でしたので、まだまだオートバイが主流の国です。

オートバイの生産や販売台数は何と言っても人口が13億人もいる中国やインドです。

その次にインドネシアが入り、ベトナムとタイが続きます。

オートバイが出回る前のジャカルタは食べものを天秤棒でかついて売り歩いていました。

今でも時々その姿を時々見かけます。私はそれを見ると江戸時代の棒手振りを思いだします。

また。屋台に車輪をつけて運ぶカキリマ(Kaki Lima、五本足)もあります。

そして今ではオートバイが移動店舗となっているのです。

オートバイの後部座席に飲み物、食べ物、たばこなどを詰めた箱

を載せて道路端で販売しているのです。

その行商する商品と運んでいる箱の中を見させてもらいました。

 

 

マンション前で客待ちする運転手さんたちは私が散歩から帰ってきても、出発した時と同じ姿勢で客を待ち続けている人もいます。

ある朝、散歩からの戻りに、運転手さんたちが何か食べていたので、それは何かと聞くと「芋」だと言い、食べてみないかといわれました。

それでそれを食べてみるとサツマイモを煮たか蒸したものでした。

私は少し食べてからありがとうと言って皆の写真を撮らせてもらいました。

(参考資料) サツマイモとジャガイモ(農林水産省のHPから抜粋)

サツマイモは、メキシコを中心とする熱帯アメリカで生まれました。

紀元前800~1000年ごろには、中央アンデス地方でサツマイモがつくられていたのです。

ヨーロッパへは、コロンブスが15世紀の終わりにアメリカから持ちかえったのが始まりです。

でも、ヨーロッパでは気候が涼しすぎてあわなかったので、あまりつくられなかったのです。

あたたかいアフリカ、インド、東南アジアの植民地に持ちこまれたことで、世界中に広がりました

東南アジアへはスペイン人やポルトガル人が持ちこんで、その後中国へと広がったとされています。

日本へは1600年ごろ、中国から伝わってきました。

琉球から薩摩に伝わったので、サツマイモとよばれています。

中国(唐)から来たいもで「からいも」とか、中国と同じく「かんしょ」とも呼ばれていたそうです。
八代将軍吉宗のころに、蘭学者の青木昆陽によって全国に広められました。

今の埼玉県川越市あたりはサツマイモの産地で、江戸から十三里あったので、ここから来る焼きいも屋のことを「十三里」とよんでいました。

それにひっかけて、焼きいも屋が「栗(九里)より(四里)うまい十三里(9+4=13)」とふれて売っていたそうです。

一方、ジャガイモは中南米から、南米のアンデス山脈で生まれました。

今でも3000m以上の高地では、ジャガイモのもとになっている野生種がたくさん残っています。

15世紀の終わりにスペイン人が南アメリカから持ちかえったのが始まりで、ヨーロッパでは長い間、花を楽しむだけのものだったのだそうです。というのはヨーロッパはアンデスより日が長くてあたたかいので、葉や茎だけがしげって、芋ができにくかったのです。
日本には17世紀の初めにインドネシアのジャカルタからやってきました。

「ジャカルタから来たいも=じゃがたらいも」がなまって「ジャガイモ」になったといわれています。
その後、江戸時代に何度もあった飢饉(ききん)のたびに、飢えをしのぐための作物として広がったようです。

現在つくられている男爵メークインといったジャガイモは、明治時代になってアメリカから入ってきた品種です。

ちなみにナスはインド東部が原産地です。

熱いほうが育ちやすいのです。

日本には中国からと、朝鮮半島からと、東南アジアからの、大きくわけて3つのルートではいってきて、奈良時代にはすでにつくられていたと考えられています

丹羽慎吾

    コメントを残す

    メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です