荻悦子
荻悦子詩集「時の娘」より「笹百合の頃」
笹百合の頃 気がふれている と言う噂の 山の娘が ふいに私の家の庭に降りたち 私に押しつけた 笹百合の花束 私はごく幼かった 目覚めのあとも尾をひく 午睡の夢 椅子に寄りかかり こうしているよりほかない 視 […]
荻悦子詩集「時の娘」より「アダージョ」
アダージョ 粘りついて重ったるい アダージョ こんなふうに 弦を撫でまわしてほしくない 街で 子連れの女乞食を 何組も見た 色石の象嵌の鮮やかな 大聖堂の大理石の壁際に 乳呑児が古布にくるまれて眠り 裸足の […]
荻悦子詩集「時の娘」より「輝線」
輝線 絵具箱の中で ほぼ十年眠っていた絵具は キャップを開けようとする手を 固く拒んだ 次々とねじ切ってパレットに置く 林檎二個 蓋付の壺 乾燥させた栗の穂の束 深い土の色の肌に 厚めの釉薬で花の葉の水の色 […]
荻悦子詩集「時の娘」より「夕映え」
夕映え 雪溶けの雫が テラスの壁を伝うのを 見つめている 目の粗い日よけ布 天井から下がる陶器のランプ ここに座っている テーブルクロスの縞の数 カットグラスに映る顔のゆがみ ここに座らされている わずかば […]
荻悦子詩集「時の娘」より「扉」
扉 でだしが肝心なのだ 低く遠慮がちに 甘すぎてもいけない 「ミシュレです 奥さん」 「どなた」 「ミシュレです どうか扉を」 三階からの声は「何」「誰」を繰り返した挙句 冷淡な「ノン」 インターフォンは切られてしまった […]
荻悦子詩集「時の娘」より「湖」
湖 160年あまりも昔 ひとりの詩人が 湖を眺めにかよったという丘の上 記念碑のそばに座ると 黄色い野の花がそよぐ草原の先に 浮かびあがる湖 鈍い灰青色の湖面 ぽつりぽつりと小舟の帆 突風に襲われた病身の女性を 救った青 […]
荻悦子詩集「時の娘」より「果樹」
果樹 フェイジョアという果樹が初めて花をつけた朝は雨だった 母 は薄紙で包んだ一枝を私のランドセルの脇に差した 白い花びらに紅いしべ 小さいが肉厚な感じの見慣れない花の 枝は 教室の花瓶の花に混じっても人目を惹いた 担任 […]
荻悦子詩集「時の娘」より~「あの野原」
あの野原 若葉をつけた木々の枝が 大きく揺れている 桜の花びらが 渦を巻いて舞っているわ ほら ゴッホの野のような渦の巻き方 花びらが待っているのに どうして わたし 厚いコートを着たのかしらね あ 花びらじゃなくて 雪 […]
荻悦子詩集「時の娘」より~「市街図」
市街図 薄緑の街を 大男の司祭が スクーターで行く 英会話のレッスンでは プロテスト・ソングを歌わせる イフ アイ ハッド ア ハンマー 声を張りあげる生徒たち 東洋の島国の 小さな河口の町では 黒人の抵抗歌も 陽気に叫 […]
荻悦子詩集「樫の火」より~「家」
家 両親はドーナツ型の家に住んでいる 数日経ってよ うやく気づいた 向い合わせに窓があり あまりに も明るい室内 両方の窓際にベンチが作り付けられ ている 私は何気なくテニスボールをベンチに置い た ボールは転がって 両 […]
荻悦子詩集「樫の火」より~「比率」
比率 太くない幹があり 高くない所で ふたつに分かれる ふたつの枝が より細い枝に分かれ 若い緑の葉を茂らせている 白い花房がさわさわ揺れている その木の根元から幹へ 幹から枝へ 木が伸びる方向にそって 鉛 […]
荻悦子詩集「樫の火」より~「紫」
紫 自転車を折りたたんだ 硝子の水差しに水を満たした 人に伝えたいことを思いながら 何ということもない作業を重ねる 短い旋律が湧いてきた 丸く膨らんだ花 大きめの薊の花が色を失っていく 初めは冴えた紫だった […]
荻悦子詩集「樫の火」より~「なつかしい人」
なつかしい人 散った花びらを握っている 乾いて褐色になり よじれたガーベラの花びら 綿毛の下に 細い種が付いている 一日一日を問い尽くし ほぐれた花びら 種との境にふわり冠毛を生やして 待っていた 鳥の柔毛 […]
荻悦子詩集「樫の木」より「影絵」
影絵 暮れかかるころ 真新しい教会の前を通った 教会の破風にはダビデの星が光っていたが 私はその先に用があるのだった 前方を男が歩いていた 男の右足の先に何か影があった 夕闇と見分けがつきにくい 影はすぐに […]
荻悦子詩集「樫の火」より~「往還」
往還 気づかないふりをするのに 疲れた いや 飽きてしまった 不意打ちに会い (そうだったのか) 隠されていたことを (とうに気づいてはいたが) いまはっきりと受け止める アスファルトの広い道 交差点の中央が急に盛り上が […]
終わりの空~詩集「流体」より
終わりの空 丸い錫の写真立てに 入れておくのは 他人の冬 夢と呼ぶな 幻とも なつかしい なかった聖日 ここではない土地の 雪の降る祝日 椅子に上着を掛けたまま 人はわけもなく人を呼んで なごりの空を眺めに立った 裸木の […]