右は、久枝が残した土谷家に関する祖先のメモである。お寺の過去帖から移したと思われるが相当古い時代から吉野の地に根を下ろしていたものと思われる。柴田の叔父さんは重太郎から「私は26代目」と聞いたことを話してくれた。
百姓が名字を持つようになったのは明治に入ってからであるが、天領であった十津川は、百姓でも名字帯刀を許されていたと言うし、古い家は屋号を持っていた。土谷の屋号は「土屋」である。下市の叔母さんから聞いた話で家紋は「違い茗荷(茗荷をクロスさせたもの)」と言うことであるし、根っからの百姓だったのではないか。

宗川野は、国道24号線を五條で降り国道168号線を約20km南下したところに在る。この先、天辻峠を越えると大塔村を経て先頃まで秘境と呼ばれた十津川村に至る。十津川は「遠つ川」から来たもので、深い山に阻まれ人の数より猿の数の方が多いと言われるくらいの僻地で、日本最大の面積ながら最小の人口
密度という自治体である。ここに逃げ込めば容易に見つからないところから古来、
中央で問題を起した人達の絶好の隠れ家となってきた。吾妻鏡では、頼朝の追

※免租

十津川は、天武天皇が壬申の乱で近江朝を倒す時、天武方に付いてその功で免租された。その後も山深い地形ゆえに中央権力の及ばない政治的空白地として自治を享受してきた。全国隅々まで竿を入れた太閤検地でさえも収奪の対象となる田も無い村を全体で千石と言う概算にして免訴地にし、徳川幕府もこれを追認してきた。
徳川時代この辺りは、大和盆地も含め天領7万石として五条代官所の支配下にあった。十津川の入口に当たる宗川野も或いはご赦免所ではなかったか。

捕を受けた義経が多武峰で僧侶から遠津河に逃げる様に勧められているし、南北朝の頃の後醍醐天皇も賀名生を一時仮御所とした。坂本竜馬も十津川に入り、中井庄五郎に佩刀を与えた手紙が残っているし、尊皇攘夷派の天誅組が挙兵に失敗して天辻峠に防戦の為の本営を構えたのも有名な話。十津川は、百姓でも名字帯刀を許されたと言う話もあり、昔から剣道の盛んな地であった。

※兵力 この地方は、兵力としては期待されていたようで、平安末期の保元の乱の時も弓の精兵
な吉野十津河の者のことが記されている。南北朝の乱にも南朝方として加担。大阪冬の陣では家康側に付いて参戦。(橋本の真田幸村は豊臣方)
※苗字 苗字に付いては、太閤検地の台帳には名前だけであるが、幕末には苗字を冠した文書が多くなる。十津川は、薩長の庇護の下で藩扱いであり、藩校も出来た。(現在の県立十津川高校の前身「文武館」)薩長土肥と共に戊辰戦争にも出て、その功で全村民が士族になったと言うことである。→十津川郷士

現在の地名は平成の大合併で大塔村と共に五条市に編入されてからのもので、それまでは「吉野郡西吉野村宗川野」であった。これとて昭和28年の町村合併促進法に基づき1959年(昭和34年)4月1日 宗桧村、 白銀村、賀名生村の3村が合併してできたもの。その前は明治の大合併(町村制の施行)により1889年
(明治22年)4月1日、吉野郡 勢井村、西日裏村、川股村、平雄村、茄子原村、本谷村、永谷村、立川渡村、宗川野村、西野村、阪巻村、城戸村、川岸村、陰地村、津越村、大峯村、檜川迫村の17村が合併し、吉野郡宗檜村となりって近
代的な地方自治制度に脱皮した。ものである。

明治の大合併:江戸時代までに発生した自然集落を統合し、近代的な地方自治を行うために市町村を合併して自治体数1/5に。
昭和の大合併:戦後、学校や消防など市町村の事務効率化の為に合併、自治体数1/3に。松場芳三は、宗檜村の村長であったが、3村合併後助役を勤めた。
この頃の自治体数:約3,300
平成の大合併:地方分権や高齢化のために合併。自治体数は約半分の1800.その後更に1700にして現在に。

※ ●●は、土谷重太郎が建てた家、●は重三郎の家、●は久枝の実家

昔は、地位の高い人ほど山の上に住んだ様である。日当たりも良いし日照時間も長い。又、隣の在所に行くにも尾根伝いに行けば谷底を歩くよりはるかに近い。宗川野でも山の上に在る戌亥、岡本は古い家で、その近くには後醍醐天皇第11子無文元選の墓と言われる御陵もある。

言い伝えに依れば、吉野には8つの豪族が居て、「お八旗」或いは「八荘司」と言ったらしい。(畠山、小野、秋津、堀、佐野、御料、御園、広橋の八家。)その内の小野氏は、宗川半郷(勢井、西日裏、平雄、川股、茄子原、本谷)と桧川郷(桧川勢、津越、陰地)を治める豪族であったと。宗檜村と言うのはここから来ている。

小野氏の邸宅は、松場の広い台地にあり「殿平屋敷」と言った。土塀を巡らせた豪邸であったらしいが七郎、八郎の兄弟が村人に無理難題を押し付けるので、怒った立川渡の人達が兄弟を猟に誘って殺し、ついでに一族を皆殺しにした。

その後立川渡には不吉なことが続いたので小野の祟りを収める為にと寺を建てたと言い伝えられる。(今でも谷脇側にある平地を「トノンタイラ(殿の屋敷)と言う。)
松場の横の井田(当時はサラヤと呼んだ)の田んぼ側には野壷が在った。

この屋敷を松場芳三の兄井上正一が買い取って芳三に渡した時には、山際に2~3軒家(今西家)が並んでいた。この人達は、ブラジルに移住、その墓が今も松場の上の山の中に在る。芳三は今西を親の如く慕っており、正一、芳三共に一緒にブラジル移住を予定していたが、2人は村人に貰った餞別を元手にバクチで稼ぎ、急遽移住を取り消したとのこと。その結果、今日の我々が在る。

当時、バクチが流行ったようで、畠山(農協の横の中前の家の主)は、子分を連れて全国を回っていたと言うし、土谷重太郎も大阪と宗川野を往き来しバクチで財産を摩ってしまい、村でも3回家を移っている。昭和30年代の頃まで、雪が降って仕事に出れなくなると決まってどこかの家でバクチが開かれていた。

※ 先の絵で山の上に在る植田が元の土谷の家、その後下の辰谷に移り、最後は阪巻に住んだが、戦後復員してきた土谷金次が家を取り、重三郎は久枝の実家である松場の納屋に住むことになった。(重美とヒロ子が生まれた)
重三郎が国道近くに家を建てて移ったのは昭和30年頃。
※ 松場の地は、昔は茄子原に属し、その後は立川渡、そして宗川野から1本の道でつながっている現在では宗川野に属す。
それでも家で葬式をする場合には、立川渡の斎場を利用している。

※荘司
中世(鎌倉・室町)には、開墾が進み小規模な自作農が発生する。これらが集って既存の公家や御家人に属さず自治を形成した村を惣村、或いは惣荘と言う。荘司と言うのはここからきているのではないか?因みに大塔村は、昔は十二村荘と言っていたらしい、中世の村の自治権は、秀吉の刀狩や太閤検地を通じて奪われる。

※畠山姓
周辺には畠山姓が多い。これは源平合戦の一の谷の戦い”ひよど り越えの逆落とし”の時に馬を担いで下りたと言う畠山重忠(頼朝の 死後、跡目争いに巻き込まれ横浜で北条時政に敗れる)の子孫畠山女弥三郎兵庫が立川渡に移り住み立川渡、永谷、西野、川股、平雄、本谷と広がった。立川渡の涅槃堂には頼朝から拝領した涅槃大曼荼羅が掲げられていたがその後高野山に移され国宝扱いになっていると言う。宗川野に中前と言う家があるが本来は畠山(子供の頃は畠 山征三が跡取りであった。現在大阪に移住)で西野の飛び地と言う。又、反対側の集落の阪巻には武田姓が多い。

宗川野の一番上、尾根の台地に八坂神社があるが、お宮には正月のお参りか遊び場としての印象しかない。階段を上がったとことに正殿があり左右に陶器の狐が祀ってあった。境内を挟んで舞台があり、横の倉庫には神輿が保管されていた。この神輿は、「ススキ」と言って、御神灯を5層に吊るすもので、中に太鼓を叩く者が座り、これを皆で担ぎ上げる。平雄、立川渡、宗川野、西野、坂巻など近隣の在所から各1台ずつ出て、八坂神社まで曳き上げて、境内で提灯が消えるまで激しく追突させ争う。喧嘩にもなる筈で、平雄は坂巻と抗争になりその後参加しなくなった。お宮に上がる道は、東家の横にあった鳥居をくぐるルートで、在所ごと皆で掛け声を掛けながらロープを引っ張って上がってゆく。その時の掛け声と太鼓の音が村中に響き渡り、我が家からもよく見えた。

当時猿谷ダムや風屋ダムの工事で他所から多くの土方が入っており、酒の勢いで刃傷沙汰が絶えなかったことや、通路の農作物が踏み荒らされる、若い人が少なくなるなどの問題があって、昭和30年代後半に無くなってしまった。最後の年にはNHKが来て収録していた。
同じ奈良県内に残っている「ススキ提灯」は、一人担ぎの3段もの程度で、神輿風になった大型のものはこの地域にしかないと思う。

お宮の境内で争い合うススキ提灯
ススキ提灯をお宮まで引き上げる。太鼓の音と掛け声が村に響き渡る。

寺は昔から村の集会所であった。公民館(私が中学の時に体育館を兼ねた公民館が中学の横に出来た。)が出来る前は、村の行事はお寺で行われており、各在所に1つずつお寺があった。
宗川野には、真言宗のお寺「水石山宝蔵院」がある。初期の宝蔵院は、後醐醍天皇の第11子無文元選が1340年(興国669年)に建立したとされる。
(1575年天正3年3月再建)涅槃の時期には大きな涅槃絵(お釈迦様が亡くなって横たわり、生きとし生けるものが嘆いている)を祀り、住職の熊谷龍英氏の説法を村中の人が聞いたものだ。特に「禅海和尚が掘った青の洞門の話」が印象に残っている。熊谷氏は、当初はこの寺に住んでいたら いが、途中から富山に移り、毎年出張で来てくれていた。
その他の仏事の時によく餅撒き(穀(ごく)撒きと言う)があった。とにかく昔は、村人とお寺の距離がずっと近かった。

どこの寺にも昔の奉納金や葬式の戒名の記録があり(過去帳と呼ばれ る)これを見ればある程度先祖を辿ることが出来た。住職が居なくなって後、この過去帳を村の狂人が昭和40年代に雨に打たせてしまい廃棄 すると言う事件があり、以降村の過去は辿れなくなった。
今となっては母久枝が寺守から聞いて書き写したと思われるメモと位牌が唯一の手掛かりである。

宗川野では、墓石を祀る場所(宝蔵院の横)と屍を埋める墓地( 柴田の上の山)の二つが在る。隣の立川渡や松場の在る坂出は火葬であるのに、宗川野は未だに土葬である。個々の墓地は決まっており、代々の先祖が埋まっている場所を掘り起して同じ場所に埋めるので、先祖の骸骨が出て来る。又、夏には死体から出る燐で火の玉が飛ぶことがある。実際、盆踊りの際に中学校の校庭から墓地を飛ぶ火の玉を皆で見た記憶がある。今は、五條市の葬式を出すので、埋める人は居なくなった。

昔、墓地は八坂神社の鳥居が立っている下の山に在った。現在の柴田の上の墓地は、当時の墓守であった堀氏が村に寄付したもので、今も墓地の上の方には堀を祀ってあると言う。又、宗川野の上の方には後醍醐天皇の子の墓があると言う。

野辺の送りには、先頭に引キン、太鼓、鉢を鳴らす。チーん、トン、シャラシャラを繰り返しながら進む。昭和35年頃から農協の拡声器が山の上に付いて御詠歌を流すようになった。 寺の横にある墓石。土谷から分かれた柴田、東の墓石が隣に並んでいる。

現在、国道168号線が五條から十津川を貫いて新宮に至っているが、昔は尾根越えの通行で深い谷、川を越えるため人馬不通の地で、谷を渡るにも野猿を使い、林業も成立しなかった。

明治40年から現国道の前身である「西熊野街道」拡張工事が開始されたのが大正14年、18年かかって城戸まで、50年かかって昭和34年に漸く十津川南端まで開通した。この道が県道になったのが大正12年、2級国道に昇格したのは戦後である。この様に道路を使っての交通や物流は戦後のことで、大正末期までは「徒歩の時代」であった。

十津川でも明治22年の大洪水以後、主要な丸木橋や板橋が吊橋に改められていった。日本一長いといわれる谷瀬の吊橋が出来たのは、昭和29年。
168号線が舗装され始めたのは昭和45年以降で、それまでは雨が降ると道路はV字型にえぐられ、通行に支障をきたした。

1)薬売り
古くから村に来ていた行商は、越中富山の薬売りであった。各家庭に薬袋を置き、使った分だけ精算する。医者に行くよりこの薬のお世話になることの方が多かった。

2)生鮮食品
冷蔵、冷凍の設備も無い時代、生鮮と言えるものは無かったが魚の干物は貴重な蛋白源であった。魚や真っ黒になった鯨の肉などは自転車や自動車で廻ってきたが、ジャコや干し海老、衣類などは1軒1軒を大きな風呂敷を担ぎながら廻っていた。欠けた前歯で売り物のジャコを齧りながら量り売りしていたおばさんの姿を今でも思い出す。

初期の道路は狭く、頻繁に土砂崩れを起した。その度に洋壁が作られていったが、昔の洋壁は輪留めが無く、対向の時は、後輪片側を浮かせて対向するのが上手い運転手とされた。当然、ミスして谷底に転落する車も多かった。

重三郎が乗っていた村でも珍しい乗用車 スバル360(2サイクル) 新宮・白浜に家族5人で旅行したこともある。

戦後復興期から高度成長期にかけて村は林業で潤ったが、それも昭和30年頃から東京オリンピック(昭和38年)、大阪万博(昭和45年)までの短い期間で あった。その後は為替自由化→円高により輸入材に圧され急速に衰退して行く。

高度成長期には、団塊の世代が学校に流れ込む時代でもあり校舎が次々と増設され、この需要を見越して奈良県では「大和ハウス工業」が創業した。材木業者が動かす金が株価を乱高下させ「吉野ダラー」として一世を風靡した。

材木を満載したトラックが国道を走る光景を頻繁に目にする様になったのは、昭和30年に入ってからであるが、それまでの材木の物流は、「木馬曳き」と「筏流し」の世界であった。土谷重三郎は木馬曳き、柴田登は筏乗りであった。

筏乗りは、接続に使う蔓が夏は腐ってしまうので、冬場だけの仕事であった。
水量が少ない時は、川を堰き止めて順次流して行ったらしい。 メッパ(飯輪?)

※ 柴刈は、女・子供の仕事。枝葉を鉈で払って縛り、柴小屋で乾燥させて軽くなるのを待つ。

当時の弁当。山に着いたら先ず半分食べ、昼に残り半分を食べる。この他、味噌を持って行き、焼けた石で水を温め即席の味噌汁を作る。

木馬曳き
※ 木馬曳きの仕事は、重い橇を担いで山に上がり、1日に1回から2回、1 トンくらいの材木を積んで曳き降ろす。
※ 橇は重くて硬い樫木製、山道には一定ピッチに桟木を敷き、滑り易い様に菜種油を塗る。梶材にはロープが巻き付けられ急傾斜ではこれをブレーキとして使って降りた。

大阪の人がこれを見て「お櫃を持って行く」と驚いたらしい。

索道の土場

※ 近くの山であれば、「カン曳き」は子供の仕事。学校が終ったらカンを担いで山に登る。
※ 昭和35年頃からチェーンソーや索道と言った動力が導入され、生産性が向上。新しい技術の導入によって木馬曳きや筏乗りは無くなってゆく。村の農作業にも索道が導入され、柿の出荷や肥料の搬送に活躍した。

松場の西側には多少の田んぼがあって、田植えや刈取り時期には、近くの子や孫総出で賑やかなものであった。この田作りのためだけに大きな牛を飼っていた。毎年開かれる品評会ではいつも優勝していたがある時牛小屋の近くに置いてあったホリドールを飲んで死んでしまった。その後、どこからか赤牛と呼ばれる黄色い牛を買って来たが訓練されていないので使い物にならず直ぐに手放した。丁度、耕運機に代わる頃であった。

※ 僅かな田んぼの為にどこの家でも牛を飼っていたが、朝夕の草刈が大変であった。

※ 苗運びは、子供の仕事であった。

急斜面での土起し
コクマ掻き 畑の土が流れない様に松葉を撒く。

ハデバで乾燥
脱穀
足踏式脱穀機→稲刈り
米搗き(精米)
石臼で精米する。子供の体重では杵が持ち上がらないので大変。1時間もかかる重労働。

籾摺り
臼を廻しながら上から籾を入れると玄米と籾殻が分離する。

藁は縄や草履に
唐箕(風選機)↓

千石通し
米粒サイズの網の目を通すことで異物を分離

宗川野の家は、重三郎が昭和30年頃建てた。資金は松場芳三からの借金であった。裏には山から湧き出した井戸があり、湿気の多い家であった。玄関を入ると芋穴があり、サツマ芋や柿の接ぎ穂を保存しておく低温倉庫であった。奥には重三郎が彫った木の臼があり、餅を突いたりコンニャクを作った。

奥は台所で竈があり、畑仕事のまま給仕できる様に土間であった。竈の上には棚がありコンニャク玉を燻すようになっていた。食事は4.5畳の居間に板敷きがあり座って食べた。席は厳格に決まっており、祖母や母は土間の椅子に腰掛けて給仕しながら食べた。食事の後は、TVを見ながらこの部屋で過ごした。

家の西端には物置があり、宴会の食器や山の道具が置いてあり、籾一石を保管する樽もあった。後に改造して受験勉強の勉強部屋となった。

寝室の奥には仏壇と床の間があり、床の間には重太郎(祖父)の作った立派な欅の机があった。(父の死後、叔父の原田四郎が持ち帰った。)トイレは汲み取り式であり、畑の肥料として使った。肥壷は、落ちるところがスロープになっており、「お釣りが来ない。」と言うことで村でも「上手な設計」と言うことになっていた。

この家は、母が岐阜の妹の家に行ってからは、松場の奥の武田が道路に遠くて不便と言うことでずっと使ってくれている。

納戸
風呂場
水桶
祖母 妹

この後ろ納屋 物置


竈 大黒柱
木臼
芋穴
弟 私
勉強机
父 TV
縁側
両親寝室
祖母・子供寝室
WC
仏壇
床の間
玄関

<棕櫚の皮剥ぎ> <炭の弧も編み> <材木の皮剥ぎ> 水に濡れても腐り難い棕櫚の繊維は、タワシやロープに使われる。剥いだ皮をまとめて農協に出した。 冬、雪で外に出れなくなると、保管してある萱で炭俵を織らされた。雪遊びをする近所の子供を尻目に1枚織ると5円で、当時アンパンが10円、1日10枚も織れば良い方だった。 春先、樹木が水を含んでいる時に剥けばきれいに剥がれるが、季節がずれると鎌で削り取らなければならない。放置しておくと皮の下に虫が入って食い荒らしてしまう。 今は製材の時、機械で剥いてしまうのだろうが炎天下の中での皮剥きは重労働であった。