ドクター・ヘボンと明治維新

皆さんヘボン式ローマ字と言うのを聞いたことがありますね。ヘボンは日本語をアルファベットで表記する方法を考えた人ですが、これが現在のローマ字のほぼ基本となっています。昨今パソコンやお役所その他で頻繁にローマ字を使うことになり、果てはローマ字入力で日本語を書くという思わぬ現在に至りましたが、ヘボンがローマ字を考案したのは日本人の為ではなかったのです。

ヘボンの本名はヘップバーン、日本人が勝手にヘボンと呼んだのですが、そのうちご本人自身がヘボンとか平分とか自称しています。(キャサリン・ヘップバーンも遠くない縁戚のようです)

タイトルでドクターと記載しましたが、元来ヘボンはアメリカの医者でした。結構成功していた医者稼業を捨ててキリスト教の布教の為にはるばる日本までやってきたのです。ヘボン41歳。時はペリー来航のすぐ後1859年で、日本の開国近しと思ったのでしょうが、戊辰戦争に始まる明治維新が1868年、その9年前です。まだまだ攘夷だ!と言って外国人排斥の時代、彼の日本での生活が非常に厳しかった時期だと言えます。

キリスト教の布教はおろか外国人排斥の最中で彼は何をしたのか気になりますね。その通り当初は大変苦労します。優しく日本人に接近して日本語を覚える努力をします。そして同じ英語を話す人たちの為に辞書を作ろうとしていたのです。辞書の第一版出版が1867年、来日7年ですが大変な努力だったことは想像に難くありません。しかし1862年ヘボン塾と言う英語教室を作っています。(ヘボン婦人クララが創設と言う説もあるが)横浜幕府の依頼で村田蔵六(後の大村益次郎)他8名が勉強したといいます。

当時の日本は衛生状態も悪く、多くの人たちが目を患っていました。ヘボンは日本人への接近の為も考え、この人たちに無料の治療をしました。徐々にヘボンの名前が知れ渡り、少しずつ患者が増えていきます。多い時には一日100人くらいの患者が訪れる事態となりました。丁度その頃あの生麦事件が起こります。早速ヘボンが呼ばれ治療に当たります。かくしてヘボンは益々有名になります。

1863年そこに現れたのがヘボンを助けることになる岸田吟香29才です。お互いに信頼できる友は持つべきもの、この二人は治療で知り合った仲ですが、出自も生き方もまるで違う二人がお互いを認め合ったのでした。岸田吟香は百姓の長男ながら19歳で江戸に出て修行、25才の折師匠と共に幕府に追われる身となり、目を患ってヘボンを訪ねる時は江戸の置屋の下男をしたり風呂屋の三助をしていたようです。

吟香の目は江戸の医者に見放されて失明直前の状態だったのが一週間くらいで快復したことで吟香は気分を良くし、同時にヘボンの純粋な心を感じたことでしょう。ヘボンにしても正に時を得た救世主に出会った思いだったと思います。ヘボンは吟香の教養を見抜いて日本語の勉強、単語辞書の添削、そして医療の手伝いと言う強力な助っ人を手に入れたと言えます。吟香は英語は無論、外国情報、更には医療情報、目薬の作り方まで手に入れました。ただ二人の歩く道は全く違います。吟香はヘボンの紹介で知り合った外国新聞社の手助けを得て新聞を発行しますが、残念ながらヘボンの都合で長続きしませんでした。でもこれが本邦最初の新聞と言われています。

1866年ヘボンと吟香の二人(ヘボン婦人同行で正確には3名)が辞書「和英語林集成」の印刷出版のため上海に向かいます。そして翌年初版の出版にこぎつけましたが吟香としては新しい世界を迎えることが出来たことへのご恩返しのつもりの同行だったのではと推測します。
1868年、戊辰戦争に始まる明治維新。今を遡ること丁度150年です。

その後の吟香ですがヘボンの免許を得たかどうか不明ながら目薬を作って販売します。ヘボンの事ならきっと賛同して応援したと想像します。これが大繁盛!当然でしょう。勝手知った中国にまで輸出したらしい。この目薬が現在の参天製薬の大学目薬につながるのです。ちょっと化学の話をすると、この目薬の成分は硫酸亜鉛0.2%水溶液で現在の目薬にも使用されている(少々疑問?)とのこと。硫酸亜鉛は稲作のいもち病対策の農薬で問題は蒸留水の製造だったかもしれません。

一方ヘボンは辞書「和英語林集成」の増補・改善に努めます。なぜならこの辞書は大変な人気を集め海賊版まで出てくる始末。主たる需要は外国人ですが日本人にも大変好評で数十冊のまとめ買いをする藩があったといいます。要は静かに英語の勉強熱が跋扈してきていたということです。1872年辞書の再版が完成、内容は大幅に改善・向上・増強されました。しかし、ヘボンは辞書が完成したとのんびりしているわけにはいかなかったのです。横浜に移転してヘボン塾を再開します。クララ夫人が英語を、ヘボン本人は英語のほかに医学も担当、ここで高橋是清や林 菫(二人はその後いずれも波乱万丈の人生を送っているが後に大成しました)などが塾生として学びました。このヘボン塾は後にフェリス女学院や明治学院大学へと進化していくのです。

この間にキリシタン禁令の高札もおり、ヘボンはやっと念願の聖書の日本語訳(ローマ字)の作成に取り掛かります。まず新約聖書、続いて旧約聖書と。

1892年ヘボンはやっとアメリカに帰国、すべてをやり遂げた満足感を持って。1911年没96才、この年しかも同じ日明治学院のヘボン館が焼失しました。実に因縁深い話ですが、彼は明治維新を見届けて、或いはその行方に失望してか、どちらの思いでこの世を去ったのだろうか、ちょっと思いあぐねます。

ここで私の持論を一言。長州、薩摩が攘夷を叫び薩英戦争や下関戦争を進めている最中、後に初代の総理になる伊藤博文らが密かにイギリス留学をするなど、世上の実態は表と異なる裏の面を持っていたのではないかと思います。ヘボンは一つの筋を通したことでこの裏の面を静かに、しかししっかりと教えてくれているのではないでしようか。攘夷だ!討幕だ!と言うのは表の話、静かに深く民生・文化の国際化の動きが進んでいた筈だと思います。

もう一つの局面は経済と産業、この面でも開国と国際化に進まざるを得ない情勢、いや運命と言うべきか?の途上にあったと思います。こちらの話はまた別の機会としましょう。

東 孝昭

    コメントを残す

    メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です