太宰治心中の謎(8)

7.玉川上水心中時の太宰の女性関係

太宰は天下茶屋に滞在し、石原美知子と見合い・結婚した後、1939(昭和14)年1月、甲府市御崎町(現・朝日五丁目)に新居を構える。同年9月には、三鷹に転居。ここで、しばらく安定した生活を送っていたものの、心中した時には、太宰は3人の女性との関係があった。

①  津島 美知子(1912年1月31日 – 1997年2月1日)
太宰の妻。山梨県出身の地質学者 石原初太郎の四女。1933年に東京女子高等師範学校(現・お茶の水女子大学)文科を卒業。同年から山梨県立都留高等女学校(現・山梨県立都留高等学校の前身の一つ)で教壇に立ち、地理と歴史を教える。太宰と結婚後、1941年6月8日長女園子、その後、長男正樹(15歳で死亡)、次女里子(後の作家津島佑子)を生む。

② 太田 静子(1913年8月18日 - 1982年11月24日)
開業医 太田守の四女。愛知川高等女学校卒業後、上京して実践女学校家政科に進む。1938年11月、計良長雄と結婚するが、1940年2月、協議離婚。太宰の『虚構の彷徨』を読む。この後、長女の死にまつわる日記風告白文を太宰に送ったところ、思いがけず「お気が向いたら、どうぞおあそびにいらして下さい」という返事を貰い、2人の女子大生と共に三鷹の太宰宅を訪問。既婚者の太宰と恋に落ちる。1947年11月12日、太宰の子を出産。11月15日、弟通が三鷹を訪れ、太宰に新生児の命名と認知を願い出る。太宰は認知書を認めた上、自らの名前から一字採って治子と命名。

③ 山崎 富栄(やまざき とみえ、1919年9月24日 - 1948年6月13日)
日本最初の美容学校「東京婦人美髪美容学校」(お茶の水美容学校)の設立者である山崎晴弘の次女。1944年、三井物産社員奥名修一と結婚。新婚わずか10日余りで、修一は三井物産マニラ支店に単身赴任。現地召集され、マニラ東方の戦闘に参加したまま、行方不明となる。1947年3月27日夜、屋台で飲酒中の太宰治と知り合う。5月3日、太宰から「死ぬ気で恋愛してみないか」と持ちかけられ、太宰夫人美知子の立場を気遣いつつも、「でも、もし恋愛するなら、死ぬ気でしたい」と答える。5月21日、太宰と初めて結ばれる。太田静子が太宰の娘治子を出産したことを知り、激しい衝撃を受ける。1948年5月下旬頃から太宰との関係に齟齬を来たすようになり、捨てられることを予感して、しばしば嫉妬の念を持つようになる。1948年6月13日、ライバル太田静子に宛てて最後の書簡を投函(「修治さんはお弱いかたなので 貴女やわたしやその他の人達にまでおつくし出来ないのです わたしは修治さんが、好きなので ご一緒に死にます」)。同日深更、太宰と共に玉川上水へ投身。

この連載の第一回目に紹介した、太宰の生家「斜陽館」の学芸員の方の以下のコメントがここでつながる。「私の個人的意見ですが、太宰が心中したのは、相手の方に、『太宰を独り占めしたい』という気持ちがあったからではなかったかと思います。『あの人には、妻の座がある。この人には、子供がいる。それなのに、私には何もない』ということではないでしょうか」。つまり、これは、山崎富栄の心情を推測したものである。

~つづく~

齋藤英雄

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