北原白秋と柳川 (その1)

3つの白秋記念館

北原白秋は、詩人、歌人、童謡作家、民謡作家、随筆家、文芸評論家として、膨大な数の作品を残している。彼の筆力は、生涯衰えることはなく、人気の高さは、白秋の記念館が、3か所も現存することからも明白である。北原白秋生家跡・記念館(福岡県柳川市)、白秋記念館(神奈川県三浦市、「城ケ島の雨」の歌碑横)、白秋童謡館(神奈川県小田原市)が建つ所は、いずれも白秋の人生にとっては重要な意味のある場所である。柳川は、白秋が19歳まで生活した故郷。三浦は、人妻との恋愛事件が大スキャンダルとなり、死を覚悟して訪れ、そして新しい人生への転機となった場所。小田原は、童謡の作詞家として成功し、それまでの貧窮生活から脱出できた地である。今回は、柳川にスポットを当て、白秋の生涯を垣間見ることにしよう。

水郷 柳川

ベニス(イタリア)、ブルージュ(ベルギー)、蘇州(中国)など、運河のある街は美しい。そうした中にあって水郷柳川の特色は、水の流れが極めて緩慢で静かであること。そのため、水が鏡のように周囲の風景を美しく映し出す点にある。白秋は、晩年に書いた「水の構図」で、柳川を次のように形容している。

水郷柳河こそは、我が生まれの里である。この水の柳河こそは、我が詩歌の母體である。この水の構圖この地相にして、はじめて我が體は生じ、我が風は成つた。

柳川市沖ノ端町の北原家は、江戸時代以来栄えた商家で、白秋の父の代では、主として酒造業を営んでいた。そんな素封家の長男である白秋は、トンカジョン(「金持ちのお坊ちゃん」という意味)と呼ばれていた。

第二の故郷 南関(なんかん)

白秋(本名 隆吉)は、1885(明治18)年1月25日、福岡県柳川市で生まれたと紹介されることが多い。しかし、正確には、熊本県南関(なんかん)町にあった母シケの実家、石井業隆(なりたか)の屋敷で生まれた。シケが、「初めての子供は実家で出産する」という当時の慣習に従ったためである。白秋は、この南関の母の実家を好み、休みになると半日かけて15kmの道のりを歩いて(幼少時は駕籠に乗り)訪れた。業隆は大変な蔵書家であったため、この家に来れば一日中好きな書物を読むことができたからである。これが、白秋が文学の道へ進む素地となった。晩年、白秋は柳川に来ると、必ずここ南関に立ち寄っている。

 

続く

齋藤英雄

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