野口英世最期の地アクラ訪問記(5)

3)リッヂ病院 (Ridge Hospital)

1928年5月、野口英世は、アクラでの研究を終えニューヨークへ戻る前に、ロックフェラー財団のラゴス本部へ顔を出すことにした。ラゴスは、西アフリカ最大の都市で、現在はナイジェリアの首都となっている。5月9日にアクラを発ち、10日にラゴス着。ラゴスに一泊し、翌11日にラゴスを発ち、アクラに12日に戻ってきた。ラゴス出発時の11日に、すでに英世の体調はかなり悪化していた。英世は、アクラの白人専用のヨーロピアン病院に入院することとなった。13日に、英世は3回も吐き、周囲は彼が黄熱病に罹ったのは、間違いないと思った(黄熱病の潜伏期間は3~6日であるから、英世が黄熱病に感染したのは、ラゴスに向かう直前のアクラであったと推測される)。15日に熱が下がったものの、19日に癲癇(ルビ てんかん)発作を起こし、半昏睡状態に陥る。そして、1928年5月21日午前11時50分に、英世は51歳の生涯を閉じた。

英世が最期を迎えたヨーロピアン病院は、現在リッヂ病院と改名されている。11月26日、我々はリッヂ病院を訪れた。病院は、多くのガーナ人の外来患者で混み合っていた。看護婦のリサさんが、英世が入院した病棟へ案内してくれた。もともとは、高床式の木造の建物。しかし、増加する入院患者を収容するため、地面と高床部分の間も病室に改装している。幹部職員のジョージ・アクアエ(George Acquaye)博士は、さかんにこの病院の改築の必要性を強調し、日本からの援助を期待しているとの話をされていた。

実際にどの部屋に英世が収容されたのかは、記録が残っていない。ただし、現在も病室として使用されている部屋のどれかであることは、間違えないようである。現在は、1つの病室に6人の患者が収容されているが、英世が運び込まれたのは、個室であったと推測される。

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写真7 リッジ病院の病棟

 

4)野口記念医学研究所(Noguchi Memorial Institute for Medical Research)

野口記念医学研究所は、国立ガーナ大学の広大なキャンパスの一角にある。この研究所は、ODAによる日本ガーナ医療協力プロジェクトとして発足した。

(写真8 野口記念医学研究所)

その経緯は、以下の通りである。

1967年:ガーナ政府より日本政府に、ガーナ医科大学に技師派遣の要請がきた。一方、その当時、福島県立医科大学では、本多憲児教授らが中心となって海外医療協力の機運が生まれていた。

1968年:「ガーナは福島県出身の野口博士の終息地であり、同国での医療協力に取り組むことは大学としても特に意義ある」と、福島医大は「ガーナ医療協力調査団」を派遣。(外務省・厚生省のODA資金支援)

1969年:協力実施スタート(医療チーム 医師長期派遣、電子顕微鏡寄贈、技術指導)

1977年:野口記念医学研究所の起工式

1979年11月24日:同研究所の開所式

1980年頃から東大、鹿児島大、徳島大の先生も少数派遣され始めるが、1985年半ばまで主として福島県立医大の先生方が派遣されていた(任期2年くらい)。岩田さんは、以下のように回想する。「幾多の困難を乗り越えてきた県立福島医大の先生方は『野口博士を思い、日本の医師として何としてもやりとげるぞ』との意地をもって取り組んだと異口同音に述懐している」。本多憲児先生は20年近く、リーダーとしてこの医療協力に関っていた。同氏の記念碑が、この研究所の中庭に残されている。

 

我々がここを訪れた時は、ちょうど年に一度の「野口週間(Noguchi Week)」を開催中(しかも、創立30周年)と知り、この時期にガーナに来られた幸運に感謝した。しかし、展示物(写真が中心)は、すべてコピーであり、新しいものはなかった。展示物の説明をしていただいたが、あまりよく英世のことが伝えられていないと感じた。現在、日本の政府機関のスタッフ、この研究所に派遣されている日本人研究者にとって、野口研は、単に野口英世の名前をつけた研究所にすぎず、彼らが野口に特別な感情を持っているようには思われなかった。(ちょうど、早稲田大学の学生や職員が、大隈重信について、詳しい知識を持っているとは限らないのと同じ。)野口博士に関する正しい情報を身につけるための英文資料の必要性を強く感じた。

エッセイスト 齋藤英雄

野口英世最期の地アクラ訪問記(6)に続く

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