前回は『風姿花伝』第一「年来稽古」(各年齢に応じた稽古のありかた)について述べたが、今回は、第二「物学」(役に扮する演戯の方法)から記述していきたい。

第二 物学(ものまね:役に扮する演戯)

~役に扮する演戯というものは、どんな役の場合でも、その対象を細部にわたってよく似せることが本来の目的である。しかし、一方においては対象によって程度の差が考えられるべきで、~品位の高い役柄とか詩的な対象については、いかにも綿密に似せるべきである。

田夫野人といった下賤の役に扮するときはよく似せることが物まね本来の目的であるとはいっても、その卑しい動作そのものを細部にわたって似せるべきではない。たとえば樵・草刈・炭焼きといった低い身分の役でも、自然の美と結びついた詩情を感じさせる一面をこそ、こまかに似せるべきであろうか。~

演じる対象によって似せるといってもそれぞれに違いがあるべきだ。

〔女〕:曲舞(くせまい:観阿弥がとりいれて現在の能のクセという部分に名残りを留めている中世の芸能のひとつ)を舞う女性、白拍子(平安末期から鎌倉にかけて流行した、男装の美女が舞った芸能、静御前・祇王などが代表人物)、または物に狂った女性(物狂いも一種の歌舞芸能者)の役については、扇とか、花の枝といった持ち物を、いかにもしとやかに、手に力が入り過ぎないように持って演ずるのがよい。~顔の角度が上を向きすぎると、面の容貌が見苦しく見えるし、またうつむくと、後ろ姿が悪い。そして首に力を入れすぎると、いかつい感じがして女らしくなくなる。~

〔老人〕:老人の役は、能の中で、至難至高のわざである。

~老人の演戯には、花がなければ、面白いところはない。~老人の立居振舞は、老年であるからといって、ただ写実的に腰や膝をかがめて、身体を折り曲げ、よぼよぼした感じを現したりしたのでは、花がなくなって、古くさい演戯になってしまう。~

老人の演戯というものは、全体をつうじて、ひとつひとつの動作を大事にして、しとやかに演じるべきである。ことに老人の役で、しかも舞を舞う、といった趣向(『老松』『西行桜』など)は、ことのほかむずかしいものである。

美しい魅力があり、しかも、老人に見えるといった、相反する二つの要素を同時に持つ工夫を、くわしく習得しなければならない。

それは、たとえてみれば老木に美しい花がさいたように演じることである。

〔物狂い〕:物狂いは、能の中で、もっとも面白さの限りをつくした芸能である。その中にさまざまな種類があるから、この物狂いを全般にわたって修得した演者は、あらゆる面を通じて、幅の広い演戯を身につけられるであろう。

(1):概して、何ものかに憑かれた役、神・仏・生きた人間の霊魂・死人の霊魂などが憑いた物狂いは、その乗り移ったものの本体を把握して演戯するように工夫すればよい。

(2):親に別れたり、子どもと別れて訪ね歩いたり、夫に捨てられたり、妻に死なれたりすることによって狂乱する物狂いは、容易ではない。

このような物思いによる物狂いの曲は、相手のことを一途に思うといった戯曲の主題を、役作りの基本に置くべきである。

そうした突き詰められた感情が、自然の風物によって触発され、一種の興奮状態になって種々の芸能をする。そのように狂うところを観せ場にして、心を込めて狂う演戯をすれば、必ず曲の主題からくる感動と見た目の面白さが一体となって舞台に表現されるであろう。

こうした曲づくりによって観客に強い訴えかけを与えたとすれば、それはこのうえない優れた演者だと考えてよい。~物狂いの扮装については、その役に似合ったようにすることは、いうまでもない。しかし、常の人と異なった精神状態の物狂いであるという意味で、時によっては、実際よりも派手な扮装にすべきである。また、その曲に合った季節の花の枝を持って舞ったり、飾りとして挿したりするのもよいであろう。

(3):直面(ひためん:面をかけない役、今の能では現実に生きている男性の役で、年齢その他の制約を受けないもの)で演じる物狂いの役は、能を知りつくした演者でなければ、十分に演じることは不可能である。なぜならば、物狂いを演じるためには、現実の逃避が必要であるから、ふつうの顔つきのままでは、物狂いにならない。~したがって直面の物狂いは、もっとも難しい物まねわざといえるであろう。~直面であることのむずかしさと物狂いのむずかしさ、この異なった二つの課題を一度に消化して、しかもそのうえに面白い花を咲かせるということは、どんなに大変なことであろうか。よくよく稽古を積むべきである。

(「世阿弥著『風姿花伝』訳:観世寿夫、」より)

以上、“物学”について、私が個人的に興味のある役のみ少し詳しく取り上げてみた。

話は少し西欧へとそれるが、能楽と同じように舞台芸術としてのオペラには“狂乱の場”(mad scene)と称される至難の大曲を含む作品が存在する。

現代に残る「狂乱の場」を含むオペラは19世紀前半にイタリアで流行したものであり、当時の人々は厳しい現実の中で、現実でないもの、ロマンティックなもの、幻想的なものに強く惹かれ、それを劇場(オペラ)に求めたのである。

ドニゼッティ作曲『ランメルモールのルチア』は、スコットランドを舞台としたウォルター・スコットの歴史小説をもとに、政略結婚やかなわぬ恋が描かれた作品である。

ルチアは悲しみと絶望の余り婚礼の夜新郎アルトゥーロを刺し殺し発狂して、最後には死んでしまうのであるが、『~ルチア』はその時代の流行の頂点の作品であり、現代まで残った数少ないコロラトゥーラソプラノの名曲(mad scene)を持つオペラでもある。

(注)

*Gaetano Donizetti(1797~1848) :『Lucia di Lammermoor』第3幕第2場「mad scene」 ~Il dolce suono~

(ドニゼッティ:『ランメルモールのルチア』第3幕第2場「狂乱の場」 ~やさしい声が聞こえる~ )

*世阿弥(1363~1444):1400年4月13日『風姿花伝』(「第三 問答条々」まで成る。あわせて、申楽伝説を『風姿花伝』の一部(「神儀」)としてまとめる。

*コロラトゥーラ(coloratura):オペラや歌曲において、早いフレーズの中に装飾を施し華やかにしている音節のこと。

これが使われている曲の中で特に有名なものとしては、モーツァルトの歌劇『魔笛』における第2幕の夜の女王(ソプラノ)によるアリア「復讐の炎は地獄のように我が心に燃え」がある。ロッシーニの歌劇『セビリアの理髪師』第1幕第2場でロジーナ(メゾ・ソプラノ)が歌う「今の歌声は (Una voce poco fa) 」も有名。

19世紀前半になってイタリアで流行した、このような「狂乱の場」のように、現実でないもの、ロマンティックなもの、幻想的なものが、日本では能楽(申楽)の重要な部分をしめる「幽玄美」(夢幻能的全体演劇)として14・5世紀には、世阿弥により完成していたのである。

能楽では、「老人」や「直面で演じる物狂い」の役は、「能を知りつくした演者でなければ、十分に演じることは不可能である」と世阿弥は言っている。また「相手のことを一途に思うといったような、物思いによる物狂いの曲」は、「そういった戯曲の主題を、役作りの基本に置くべきである」とも言っている。このような突き詰められた感情が、物狂いとして錯乱や狂気を生じさせ、オペラではそれ自体狂気をも感じさせるような技巧の限りを尽くした、コロラトゥーラの出番となるのである。

『風姿花伝』には「物狂い」について具体的な言及はあまりなかった。

「よくよく稽古を積むべきである」

そこには時代を問わず洋の東西を問わず、私の一番苦手な言葉が出てきている。

ごく短いこの言葉には千金の重みがある。しかしそれだけでは表現できない“狂気”を、今回私は「ギリシア哲学」の中に見つけることができたのである。

“人は、誰かを愛している時、エロスという神霊、ダイモンの神懸り状態にあるといってもよいでしょう。非常に霊的に覚醒した状態になるのであります。

これは、神懸りであるが故に、「神的狂気」と呼ばれるものであります。狂気そのものは、正気より劣っているといえますけれども、神的狂気は、正気よりも素晴らしいということがいえます。

このエロスの神的狂気によって、日常性の正気を離れ、限りなく神秘的な美そのものを追い求め、また、自らも体現することが出来るのであります。”(諭吉倶楽部会報第21号掲載:天川貴之「哲学的愛」より)

「よくよく稽古を積むべきである」→技巧の習得→役作り→「神的狂気による神秘的な美の体現」

これを世阿弥は「よくよく稽古を積むべきである」との一言で伝えていたのである。

次回は能楽理論で重要な「時の花」と「まことの花」そして「しおれた花の美しさ」について述べてみたいと考えている。

(続)

杉本知瑛子

大阪芸術大学演奏科(声楽)、慶應義塾大学文学部美学(音楽)卒業。中川牧三(日本イタリア協会会長、関西日本イタリア音楽協会会長))、森敏孝(東京二期会所属テノール歌手、武蔵野音大勤務)、五十嵐喜芳(大芸大教授:イタリアオペラ担当)、大橋国一(大芸大教授:ドイツリート担当)に師事。また著名な海外音楽家のレッスンを受ける。NHK(FM)放送「夕べのリサイタル」、「マリオ・デル・モナコ追悼演奏会」、他多くのコンサートに出演。

 

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