福澤諭吉と勝海舟

NHK朝のテレビ小説「あさが来た」では、主人公の女性が上京したときに、福澤諭吉に偶々出会い、啓発されるというエピソードが挿入されていた。もちろん、フィクションであるが。さらに、ドラマでは、史実としての北海道開拓使官有物払い下げ事件が物語の展開における重要な出来事として扱われていた。

この官有物払い下げのスキャンダルに端を発して起こったのが「明治十四年の政変」である。この政変により、大蔵卿であった大隈重信は政敵によって失脚させられた。また福澤諭吉やその門下生たちにも少なからぬ影響を与えた。以前、これを題材として小論をしたためたことがある。

さて、明治の啓蒙思想家として一躍名を成した諭吉であったが、この政変を機に政治に関わる表舞台からあえて背を向けた感がある。そこには、清濁併せ呑み、時にはあえて火の粉を浴びることすら余儀なくされる現実の政界とは一線を画すとともに、政治思想家としてはある種、挫折の苦渋を呑まざるを得なかった側面があったのかも知れない。

「瘦我慢(やせがまん)の説」は、その後の、明治二十四年に書かれ、明治三十四年に発表された諭吉の論文である。そこからは、諭吉の政治に対する考え方、ひいては国家観の一端が窺える。諭吉の主張は概略こうであった。

・日本の武士社会固有の士風を維持するのは痩我慢によってである。
・痩我慢は立国においてなによりも重要なものである。
・維新のときに幕府が勝負を試みることなく官軍に屈したのは痩我慢の精神に悖る(もとる)行為だ。
・勝海舟は元々幕府の枢要にいながら、新政府の高官になるとは何事か。

特に、勝海舟に対しては上記の如く、手厳しい攻撃ともいえる論評を行っている。そして諭吉は明治二十五年、勝海舟に対し、この論文を後日発表するつもりだが間違いがあってはいけないので意見があれば言って欲しいと手紙で伝えている。これに対する勝の回答はこうであった。

「行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張、我に与らず我に関せずと存じ候。」

つまり、やったことは自分の責任である。それについて、あれこれ評価するのは他人が言うことで、自分に関係がないので好きにしたらよろしい、というものであった。

勝は、また著名な「氷川清話」でこう語っている。

「福澤がこの頃、痩我慢の説というのを書いて、おれや榎本(武揚)など、維新の時の進退に就いて攻撃したのを送って来たよ。ソコで『批評は人の自由、行蔵は我に存す云々の返書を出して、公表されても差し支えない事を言ってやったまでサ。福澤は学者だからネ。おれなどの通る道と道が違うよ。つまり『徳川幕府あるを知って日本あるを知らざるの徒は、まさにその如くなるべし。唯百年の日本を憂うるの士は、まさにかくの如くならざるべからずサ。」

つまり、福澤はあくまで学者だ、自分の志す道と違う、徳川幕府だけを見て、(それを包含する)国というものを見ていない人間と、百年先の日本を心配して講和を図った自分とは考え方が違うと言っている。福澤は論争を挑もうとしたが、勝は同じ土俵には立つつもりはなかった。

ここで、どちらが正しい、間違っていると論考するつもりはない。ただし、福澤の主張には、あくまで武士の美学が貫かれている。そこには一本の筋がある。一方、勝は目の前に、胎動する新たな歴史に立ち向かい、ともすれば汚いと言われることもある、政治の力をもって無血での革命が成就する道を選び、実行した。

ひとつ言えることがあるとすれば、江戸から明治への大転換は、国家の進退をかけた一大事業であった。歴史に「もしも」はないが、仮に国内が大混乱のままでまとまらなかったならば、つまり内戦状態が長く続き、国も民も疲弊し尽くしたりすれば、日本というちっぽけな国は、列強の餌食にされていたかも知れない。

明治維新後の日本の躍進はまさに目覚しいものがあった。福澤も、勝もそれぞれの世界で一家言を持ち、何事かを成し遂げ、多くの人に影響を与え、日本の歴史にその名を刻んでいる。歴史は無言でいて、まことに雄弁である。(了)

俊城

 

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