2.賢治の愛

(1)最愛の妹トシ

下根子の別荘は、賢治の妹トシが病気療養した場所でもあった。トシは賢治よりも2歳年下で、日本女子大の家政学部で学び、成績優秀であったという。しかし賢治同様結核に侵され、4年生の時は、ほとんど出席できなかった。卒業は諦めていたが、それまでの学業が優秀であったため、見込み点で成績をつけられ、卒業証書を手にすることができた。

トシが東京の永楽病院に入院していた間、賢治は付ききりで介護した。トシは、宗教面では賢治の法華経信仰の理解者であり、また賢治の書く詩や文章を高く評価していた。賢治は、家出をして東京にいる間、一か月に原稿用紙3000枚もの量の原稿を書く。トシが花巻の教職についた後、また病床に伏したときには、賢治はこの膨大な原稿を持って見舞いに訪れ、妹に自分の書いた物語を読んで聞かせていた。

ともに、病魔に苦しみ、自分の人生の長くないことを覚悟し、同じ信仰の道を歩いていた2人の関係は、通常の兄・妹の関係より深いきずなに結ばれていたのだろう。トシが24歳の若さで他界した時、賢治は押入れの中で慟哭(るびどうこく)し、その後半年間は、執筆活動を行うことができなかった(尚、東映の「わが心の銀河鉄道」に、この下根子で養生するトシが出てくるが、この地は映画に出てくるように山に囲まれた場所ではなく、平地である)。

(2)賢治の愛した女性、賢治を愛した女性

宮澤賢治は37歳で没するまで、独身を貫いた。病弱であるがために、そうしたのか、禁欲的な仏教徒としての生活を送りたかったためなのか、いろいろな仮説が成り立つが、実際のところは、不明である。

松竹映画「宮澤賢治―その愛―」には、3人の女性が登場する。まず初めは、賢治が18歳の時、岩手病院(現在の岩手医科大学付属病院)に肥厚性鼻炎の手術のため入院した時に、思いを寄せた看護婦である。これは彼の片思いであったが、真剣に結婚を考え、父親に結婚を申し込むことについて承諾を得ようとしている。これに対して、父は賢治がまだ18歳と若いことと、定職を持っていないことから反対した。

2人目は、羅須地人協会に、たびたび出入りするようになった、小学校教師、高瀬露(たかせつゆ)である。露は、賢治の文学や生き方に共鳴し、賢治に近づいた。賢治は、最初それなりに露に惹かれたようだが、結局は露の愛を受け入れなかった。

露は、自分がキリスト教徒で賢治とは宗教の違いがあるのが原因ではないかと思い、それが原因なら改宗すると話す。しかし、賢治は「そうではない、自分にはやることが山のようにあって、1人の女性に時間を使うわけにはいかないのだ」と詫びる。露と賢治の関係は、その後人々の噂となり、露は相手の気持ちを考えない強引な女性と悪評を受けるが、終生賢治を尊敬し続けたと言われている。

3人目は、伊藤七雄の妹チエである。七雄はドイツ留学を経験し、水沢に住んでいた。賢治同様結核にかかり、その養生も兼ね温暖な伊豆大島へ引越し、その地で農芸学校の設立を目指していた。七雄は、下根子に賢治を訪ね、大島での農業指導を依頼するとともに、妹のチエを嫁にもらってくれと賢治に迫る。その後賢治は、病魔に襲われ、羅須地人協会の閉鎖を余儀なくされた。そして、自宅で療養した後、1928(昭和3)年大島への旅を決行する。チエと再会し、農作業を共にした。しかし結婚の決意はできず、また来ると言い残し、大島を後にした。

東北砕石工場に技師として就職し、土壌の質改善のために、石灰石を売り込むが、東京出張中に高熱を発し、遺書を書く。一命は取りとめ、父に迎えに来てもらい、花巻の実家に帰ると、チエから手紙が来ていた。賢治は、死の迫る床の中で、「春になって暖かくなっておうかがいします」との返事を書いたが、結局その約束を果たす事はできなかった。

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