宮沢賢治 人気の秘密(2)

「雨ニモマケズ」の詩には、37歳の若さで病死した賢治の人生が色濃く反映されている。賢治は病弱で、22歳の時受けた徴兵検査では、第ニ乙種で兵役免除になっている。また、この年肋膜炎と診断され、友人に「自分の命はあと15年もあるまい」と漏らしたという(実際賢治は、この15年後に死去)。「丈夫な体を持ち」というのは、彼の強い願望であった。

賢治は、花巻の名士の家庭に生まれた。生家は、質屋(古着屋)を営んでいて、父は町会議員に何度も当選した人物であった。宮澤家の長男である賢治は、当時では当然の如く、父の事業である質屋を継ぐことを期待されていた。しかし、彼は貧しい農民から高い利息を取る質屋には、疑問を感じていた。むしろ、父親に「質屋をやめてください」と懇願している。

質屋に出入りしていた小作の農民の生活は悲惨であった。旱魃や冷夏に見舞われると、米は取れなかった。凶作が1年なら何とか凌(ルビしの)げても、2年連続すると、彼らの生活は破綻した。多くの餓死者が出たり、娘を売ったり、一家心中を図り、自宅に火をつける者すらいた。食べるだけ、生きるだけで精一杯という生活であったと思われる。こうした厳しい生活が、賢治の生きた1896年から1933年の現実であった。特に1931年には、冷害の上に、世界大恐慌の余波から、不況のため出稼ぎの道もなく、娘の身売りも多数出た。今から、わずか70余年ばかり前の話である。この年満州事変が勃発し、翌年には満州国建国。政府の満洲への移民政策に乗って、農地を持たない農民が新天地を目指したのも、こうした悲惨な状況を思えば、理解に難くない。

賢治は幼少の頃、母親のイチから「人というものは、人のために、何かをしてあげるために、生まれてきたのス」と繰り返し教え込まれた。これが彼の潜在意識に宿り、岩手の農民の生活を悲惨な状況から救い出すことに心血を注ぐ原動力の一つになったのではないかと思われる。県立盛岡中学卒業後、父の後を継がず盛岡高等農林学校(現在の岩手大学)に入学したのは、科学の力を使って、東北の農業を改革しようという熱意があったためであろう。賢治は成績優秀で、尋常小学校は全甲。高等農林学校では、主席で卒業している。

しかし、自分で農作業をする実践経験には欠けていた。これが、彼の大きなコンプレックスであった。稗貫農学校にて教鞭をとり、農業のみならず、芸術分野にも生徒の指導にあたる。しかし、悲惨な農民の生活は変わらず、自分が月給をもらい、農民とは別次元の生活をしていることに、後ろめたさを感じ、教職を辞す。そして、自ら畑を耕作する生活に入ったのである。

それが、この「雨ニモマケズ」の石碑の立つ下根子の下の畑である。ここで彼は、自給自足の生活を送る。その食生活は、貧しいものであった。「一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べ」というのは、その当時の食生活を表している。こうした貧しい食事を聞きつけた母が、賢治の健康を気遣い弁当を届けに来るが、賢治は頑なにこれを拒む。それを食べれば、自分がまた農民からかけ離れた生活になることを恐れたのだろう。母イチは、賢治の健康が不安で、突返された弁当を持って、肩を震わせて泣いた。

私は以前から「南に死にそうな人あれば行って怖がらなくてもいいと言い」という部分が心に引っかかっていた。人間は、死ぬ時どんな感情を抱くのか。死への恐怖に打ちのめされるのであろうか。彼の手帳に記されたこの詩をみると、「南ニ死ニサウナ人アレバ」の次の行に「シヅカニ」と書いた後それを縦棒で消し、「行ッテコワガラナクテモイートイヒ」と書いている。これを書いた時、どのような場面を賢治が思い描いたのか今となってはわからないが、私は、最愛の妹トシが24歳の若さで死去する時の様子を思い出したのではないかと考えている。

1996年、宮澤賢治生誕百周年を記念してつくられた東映の「わが心の銀河鉄道」という映画には、トシが死ぬ前に「兄(え)なさん?おれ、死ぬのすか?おら、おっかねえ。」とベソをかきながら、言う場面が出てくる。本当にトシがこうした言葉をはいたかどうかは知らないが、映画のこの場面を見たとき、長年の謎が解けたような気がした。

「北に喧嘩や訴訟があればつまらないからやめろと言い」には、人間の醜悪な部分へ彼が抱いた悲しさを感じる。夏の旱魃の時には、農民にとって水の確保が稲を守る上で、極めて重要であった。旱魃になると、夜中にこっそりと自分の田畑に水を導く「水泥棒」が頻発した。そして、それが農民同士の喧嘩になっていくのであった。そうした場面を見るのは、賢治にとって耐え難いものであったと思われる。彼は、自分が丹精込めて栽培した白菜が盗まれても、「あの人には、あれが必要なんだ」と言って、盗人を責めなかったという。

賢治は、この地に作った羅須地人協会で、農民に農業の科学的知識をわかりやすく教えた。また、あちこちに出かけて行っては、それぞれの畑の状況を聞いて、カルテをつくり、予想される天候も勘案の上、その畑にとって最適な肥料計画を立てた。保守的な東北の農民が、そうして立てた肥料計画を実行に移せるよう「失敗したら、私が弁償します」とまで、言った。多くの農民は、こうした指導を無償で提供してくれる賢治に感謝したが、中には彼に対して「道楽百姓」と罵るものもいた。しかも、こうした努力にもかかわらず、旱魃や冷害には勝つことができなかった。賢治は自分の無力感に苛(ルビさいな)まれ、自らをデクノボーと呼ぶのであった。

彼の人生行路を知らなかった私は、この詩から賢治の人間愛、奉仕の精神、金や社会的地位への執着の無さを感じるのみであったが、この詩にはそれまでの賢治の人生が投影されていることに気付き、より深い感銘を受けるようになった。

齋藤英雄

 

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