野口英世とアメリカ(3)

2.渡米のための資金調達

北里研究所での将来に希望が見えない上、同僚の関係が上手く行かず、英世の研究所の中での居心地は悪くなる一方であった。彼が、持ち出しを許されていない貴重な図書を友人に無断で貸し出し、それが行方不明になるという事件が、状況を一段と悪化させた。北里所長は、英世の将来を考えてか、あるいは厄介払いのつもりか、横浜海港検疫所の検疫医官補の仕事を紹介する。英世は北里研究所に別れを告げた。

しかし、横浜海港検疫所の仕事について数カ月後、北里所長から呼び出される。「清国(中国)の牛荘(ニュウチャン)で流行しているペスト撲滅のため、国際予防委員会が日本人を必要としている。そのメンバーとして、清国へ行ってみないか」という誘いを受けた。月給は200両(200円以上)である。この話は、アメリカに渡航する資金を貯めるためには、絶好の機会。英世はすぐに了解する。

現在でこそ偉人と見られる英世だが、実は、東京に出てきてからは、放蕩生活を送っていた。友人や恩師から勉学のため借金しても、現金を手にするとすぐに、遊郭で女遊びや飲み食いに使ってしまう。清国に行く前に支給された多額の支度金も、こうして使われてしまった。英世の浪費癖は死ぬまで続くが、これは子どものころの貧困生活が、貯蓄という習慣を植え付けるのを難しくしたのかもしれない。

英世の周りにいた人々の殆どは、彼から金の無心を受けている。結局、その殆どを踏み倒すことになるのだが、そうした英世の悪癖を知りながらも、ずっと援助を続けた人物が3人いる。まずは小林栄。小林は猪苗代の小学校の教員をしていた。尋常小学校の卒業面接試験の時、初めて英世に会い、その非凡さに気付き、高等小学校への入学をすすめた。その後も野口家の面倒を見続け、英世の死後、野口英世記念館の開設に尽力した人物である。2人目は、高等小学校の同級生、八子弥寿平(やこやすへい)および彼の父留四郎。留四郎は学者になりたかったが、家業を継ぐため商人となった。しかし学問に造詣が深く、戊辰戦争で官軍に敗北した会津から、何とか歴史に残る人材を輩出したいと考えていた。英世への援助は、こうした背景から行われた。3人目は血脇守之助(ちわきもりのすけ)で、東京の高山歯科医学院の講師から、後の東京歯科大学を設立した人物である。英世は医術開業前期試験に合格後、東京で守之助を頼ってここで働いた。

齋藤英雄

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