野口英世とアメリカ(7)

<strong>5.野口</strong><strong>英世とジョン・ロックフェラー</strong>

英世は1903年秋、念願の欧州留学のチャンスを得る。行き先は、デンマークの首都コペンハーゲンにある血清研究所。尊敬と親しみを感じられる所長のマッセン博士の下で、仕事の期限に追われることのない生活は、英世の人生で最も楽しかった時期であろう。さらに、デンマーク娘に恋すらした。この恋は、結局実らないものではあったが、この留学は英世の人間としての幅を広げるものであった。

英世がデンマークへ留学したのは、ニューヨークのロックフェラー医学研究所開設の準備という意味もあった。同研究所の所長になることに決まっていたフレクスナーは、英世をこの新しい研究所につれていくことにした。そして、1904年9月にデンマークから帰米した英世は、同年10月から、ニューヨークのロックフェラー医学研究所に勤務することとなった。

ジョン・D・ロックフェラーといえば、アメリカの石油王である。現在のエクソンモービルやシェブロンなどの前身であるスタンダード石油の創設者であり、アメリカの歴史上最高の金持ちといえる人物である。

ロックフェラーと英世には、共通点がある。それは、ともに父親がまったく頼りにならない人間であったことである。ロックフェラーの父親は、にせ薬を売り歩く行商人であり、悪く言えばペテン師でもあった。英世の父親は、アルコール依存症で、かつ博打が好きであった。英世の眼には、父親は母親に迷惑をかけているだけの存在にしか写らなかったようだ。もっとも、英世の頭のよさは、父親から受け継いだものと言う説もある。

ロックフェラーと英世の最大の違いは、金銭感覚である。ロックフェラーは、巨万の富を築き上げたが、個人の生活は、富の大きさに比較すると非常に質素であった。それに対して、英世の浪費癖はアメリカに行っても変わることがなかった。ロックフェラー医学研究所では、わずか6名しかいない正式所員となり、年俸5,000ドルもの報酬を得ていた。それでも、金は貯まらなかった。

一方、ロックフェラーは、信心深く、自分がこのような成功を収めるのは、神が自分を使って、人類を救おうとしているに違いないと考えていた。教会には、寄付をしていたが、転がり込んでくる金は、途方もない金額であり、ちょっとした寄付では、とても使い切れない。それに伴い、ロックフェラーの元には、寄付を求める膨大な数の手紙が届いた。その数は、1カ月に3万通ともいわれている。しかし、彼は「もう、貧しくて食べるものがない。何とか子供を救うために、寄付をお願いします」という類の依頼には、一切応じなかった。こうした依頼に答えても、それは抜本的な解決にはならないと考えたからである。

まず、彼は教育機関への寄付をおこなった。有名な事例は、存亡の危機にあったシカゴ大学に多額に寄付を行い、シカゴ大学を再建拡充した。次に彼は、医学研究所に目をつけた。ロックフェラーの慈善事業のアドバイザーであるゲイツは、パリのパスツール研究所やベルリンのコッホ伝染病研究所のようなものをアメリカに設立することを提案した。当時、アメリカにこうした研究所を作っても、どれだけ成果があがるか疑問視する意見が多い中、ロックフェラーは、1901年に医学研究所を設立し、10年間で20万ドルという破格の資金提供を約束した。ロックフェラーは、慈善事業に自らの名を冠することを嫌がったが、この研究所は数少ない例外である。

ロックフェラーは、医学研究所のトップに最高の人材をスカウトするよう命じ、最高責任者にジョンズ・ホプキンズ大学医学部の初代医学部長であったウィリアム・ウェルチ博士を据えた。そしてウェルチは研究所の所長として、自分の一番弟子であり、彼がアメリカで一番優秀な若手病理学者と見ていたサイモン・フレクスナーに白羽の矢を立てた。フレクスナーという完全主義者の所長を迎え、ロックフェラーは、医学研究所にさらに100万ドルの寄付をする約束をした。

齋藤英雄

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