インドネシア回想記(1)

その昔、ジャワ、スマトラ、ボルネオ、セレベス 等の島の名前で呼ばれ、いずれもオランダの植民地として知られた熱帯の諸島が、1945年の日本の敗戦を機に独立して、インドネシア共和国となった。
日本は、1940年代の前半、一時的に統治していたが、その軍事政権が宥和的だったっこともあり、今も親日的な人々が多く、この国に出かけて仕事をする人間にとって、非常にありがたいことだ。
1968ー72年にまずバンドンに、1974ー78には首都ジャカルタに、合計約8年間駐在して、商社の営業マンとして過ごした。バンドンは、南緯7度、東経107度、標高7-900メートルの高原に位置し、年中日本の初夏のような快適な気候に恵まれた都市で、当時人口180万、首都ジャカルタ、商都スラバヤに次ぐ、第三の年として繁栄していた。
国有鉄道、国営電信電話公社の本社があり、地質研究所、最高学府のバンドン工科大学、医学研究所等が設置され、私の駐在員生活は、上記の2大公社とのビジネスでスタートした。
(以下、次号)
三浦二雄

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三浦二雄

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