追憶のオランダ(12)市庁舎はなぜ無傷で残った

第二次世界大戦が勃発して、オランダは真っ先に大打撃を受けた。1940年5月14日のドイツ軍による大空襲でロッテルダムは壊滅的な被害を受けた。ロッテルダム港はその当時から貿易の中心であったことから、戦略的に一番に狙われたらしい。空襲後の写真を見ると、ポツンポツンといくつかの建物は残っているが、その中で目に付くのが市庁舎、セントローレンス教会、それとマース川に近い通称ヴィットハウスなど(冒頭の写真は戦後すぐの1946年に撮影されたもの)。
ドイツ軍が破壊し忘れたからか?
そのようには思えない、明らか何らかの意図をもって残された。それは、すべて破壊しつくすとどこがどこだか分からなくなる。さらなる展開のために目印(ランドマーク)として市庁舎は残された感じもする。

その市庁舎は目抜き通りであるコールシンゲル通りに面し、私の勤めていた会社の事務所から目と鼻の先のところにある。着任当時はしばらく家がなく、これまた市庁舎のすぐ近くにホテル住まいをしていたが、ロッテルダムのサッカーチーム、フェイエノールドがリーグ優勝か何かをしたらしく(当時はよく知らなかった)、昼間から街中がドンチャン騒ぎ。選手たちが市庁舎のバルコニーに勢揃いして集まった群衆に手を振り、群衆もまた旗を振り、町中が祝賀ムード一色だった。当然、殆どの人たちが酒を飲んでいる。私も、雰囲気を味わおうと、ビールを片手に2-30分歩いてみた。

でも、夕方から徐々に雰囲気が変わり始め、昼間は集まった観衆も警備にあたる警官も非常に和気あいあいだったものが、夜には一転大乱闘に突入。怒鳴り散らす、物は投げる。ビールなどの缶や瓶も投げるし、石を投げたいのだと思うが、石は道路には転がっていないので、舗装のレンガを剥がし、砕いて投げる。店のウィンドーを軒並み割る、それはひどいことになっていた。しばらくホテルの窓から見ていたが、初めての光景に唖然としたものである。深夜遅くまで、パトカーのサイレンと、空にはヘリコプターが何機も飛び回りと、騒乱状態が続いていた。うるさくてなかなか寝付けない。昼間のあの和やかさは何だったんだよ、お互い優勝を喜んでいたのではないか?

翌朝、早く起きて散歩して昨夜の後をみてまわったが、事務所が入っている建物の1階の店は、略奪こそなかったものの、ショーウィンドウの大きなガラスは何枚かを残しほとんどが割られ、ひびが入っていた。それと、裏通りには膨大な量のごみ、それと無数の小便のあと、むかつく匂い。私自身、その後フーリガンという言葉を知ったが、それに似た連中がオランダにもいたことがわかった。

でも、市庁舎だけはなぜか無傷だった。フーリガンたちもさすがに遠慮したのか?ドイツ軍でも手をつけなかったくらいだから。

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