海外旅行中には盗難にあうことも稀ではない。何を盗られるかにもよるが、パスポートを盗られる(紛失する)となるとそれは大変なことになる。少なくとも、紛失後はさらに予定通りの旅行を続けることが困難になる。然るべく、パスポートの再発行の手続きをということになるが、今回はその話は省いて話を続ける。
私がロッテルダムで勤務している間にも、盗難の被害にあわれた来訪者が数人おられた。そのうちの一人に我が同僚がいた。彼は欧州出張の最後の週末に当地に立ち寄ってくれた。終末の一日をオランダで過し少しだけ観光して帰国予定だった。当日金曜日夕刻、ホテルまで迎えに行ったが到着が遅れているらしく予定時間を過ぎてもまだチェックインしていない。しばらく待っていると、彼がスーツケースを押しながら悄然として現れた。聞くと、先ほどロッテルダム中央駅の前でグループ犯らしい連中にアタッシェケースを盗られたと。なかには、パスポートはじめ帰りの航空券、トラベラーズチェックなども入っていた由。
ということで、パスポートはないが私も立ち会って急ぎホテルにチェックインして、すぐに盗難届を出すため、最寄りの警察に駆け込んだ。そこでは、非常に親切に盗難届の手続きを済ませてくれ、おまけにトラベラーズチェックの封鎖とかも警察でやってくれた。
あと、何をどうすべきか検討することになるが、まずは腹ごしらえということで私がいつも行くレストランへ行き、知恵を絞ることにした。といっても、すぐに妙案は浮かばない。やはり、パスポートが先決なので、もう金曜日も21時を回っており、土曜日直接ハーグの大使館まで出向くことにした。大至急で再発行を申請しても新しいパスポートを受け取れるのは火曜日か水曜日になりそう。彼は、月曜日には日本にいたいというが、それはどう考えても無理な事。
今夜は飲もうということで、飲みだした。すると、我々の雰囲気を察したか、懇意にしてもらっている店の主人が来たので、困っていると簡単に話した。すると、「こういう方法もないではありませんよ。」と、知恵を授けてくれたのだ。
N航空で、日本に帰るだけなら、パスポートなしでも予定通り帰れます。ただし、私が(というより、私の勤務している会社の名のもとに私自身が)N航空に対して彼の身元を保証して、しかも日本側で彼の家族が成田空港まで彼を受け取りにくることができれば、帰国は可能かもしれないと。そして、夜遅くて失礼とは思ったが、すぐにN航空の知り合いの方に直接電話を入れて、確認して頂いた。快く了承いただき、翌日朝早くから駆け足の観光?をして、予定通りの時刻に空港へ行った。そして簡単な手続きを済ませて彼を日本に帰すことができた。この時の有難さは今でも忘れない。
要は、パスポートを失くした彼はこの日「N航空に預けられ日本まで送り届けてもらう『託送荷物』」になったのだ。
この時の窃盗犯グループは至って巧妙。あとで彼に聞いたところでは、まず彼のコートの背中にケッチャップをつけて、親切に注意してくれる。彼がスーツケースとアッタッシェケースから手を放しコートを脱いでそれを確認しようとしている時に、近くで別の仲間が小銭を落とす。その音に彼が反応して振り向き余計な親切心を起こして小銭を拾ってあげている間にアッタッシェケースをひったくりまた別の仲間に手渡す。彼はその瞬間さえ見ていない。小銭を拾い上げて向き直った時には既にアッタッシェケースは視界からは消えている。おそらくコートのケッチャップと小銭にまだ気をとられていて、犯人グループが消えてから初めてアッタッシェケースがなくなっていることに気付いたのだ。彼が見せてくれたが、犯人が小道具として使った小銭はフランスの1フラン硬貨。
彼はこの種の犯罪についての予備知識も十分あったし、そんな仕掛けにまさか自分自身が見事に引っ掛かるとは思ってもいなかったようだが、いざその場に臨むと、ごく自然に余計な動作(大事なものから手を放し、コートを脱いで、おまけに小銭まで拾う動作)をしてしまっているのだ。この場合、本当に汚されてしまっているなら、もうあきらめて、「親切に、有難う。」と短く礼だけ言って、そのままその場からさっさと立ち去ることが肝心。
さらに親切そうに汚れを取ってやるなどと言われても、それには乗らぬこと。そのままトイレなどにノコノコついていくと、話はだんだん深刻になっていく危険性もあるので、ご注意を。「分かっている、分かっている。」と言っておられる、あなた。次はあなたかもしれませんよ。

これには、少しだが後日談が付いている。
盗難事件から1カ月以上経って、私のもとへ近所の小さなホテルから一本の電話があった。聞くと、盗難にあった彼のノートを預かっているので、良ければ受け取りに来てほしいと。何だか狐にでもつままれた感じもしたが、ともかくそのホテルまで出向いた。すると、話はこうだ。
数日前、そのホテルの前にそのノートだけが打ち捨てられているのをホテルの前を通りかかった人がホテルのフロントに届けてくれたらしい。中を見ると一枚の名刺が挟んであり、それが彼がこの出張の前半に訪問したわがイタリア法人の同僚のものだったのだ。そんな事情を一切知らないまま、ホテルの人は親切にもわざわざ名刺を頼りにイタリアまで電話をしている。そして、そのノートの持ち主の会社のオランダ法人がロッテルダムにもあることを教えてもらい、今度は私のところまで電話で知らせてくれたのだった。殆ど読めないだろう日本語ばかりが書いてあるノートを、そこまでして持ち主に届けようとしてくれたホテルの人の熱意と親切心には頭が下がった。その日は、そのいきさつを聞いて彼に代ってただただ感謝しノートを受け取って帰った。
そして後日、またチョコレートを持って礼に行った。このチョコレート代を彼には請求はしていない。

Digiprove sealCopyright secured by Digiprove © 2020
10+