森本剛史君との思い出7~社会人時代・大阪編

大学を出ると、剛やんは東京で、私は大阪で就職しました。社会人となって1、2年目は、誰でも仕事を早く覚えようと懸命に働くものです。商社に入った私は、ちょうど石油ショックのころで景気も良くそのせいか残業も多く、会社と独身寮を毎日往復するだけという忙しい日々を過ごしていました。まして東京と大阪なので会う機会はほとんどなく、会えうのは帰省した時くらいでした。

大阪での久々の再会

社会人となって3年半経ったころに私は結婚して吹田市の社宅に住んでいました。ある日のこと、久しぶりに剛やんから連絡があり彼の奥さんを同伴して我が家を訪ねてくるというのです。もちろん大歓迎で再会を喜び合ったのはいうまでもありません。それまでのお互いの無沙汰のすきまを埋めるようにして飲むビールの味は格別の旨さでした。聞くと、新婚旅行を兼ねて再び世界一周の旅に出る直前でした。相変わらずの行動力で学生時代と少しも変わらない若々しさにまた刺激を受けました。

久しぶりの再会を喜び、二人を送り出してからまもなくして私の人生においての大きな波がやってきました。それは、勤めていた会社の合併と義父の経営する会社の倒産、そして義母の難病罹患でした。とてつもない大きな波が一挙に押し寄せてきたのです。自分の勤める会社が吸収合併されて、首切りが始まり全社員の10分の1しか残れないという状況の中、明日の生活に不安を抱えた毎日でした。

残れる確率が10%という戦々恐々とした日々を過ごす中、一人二人と去っていく同僚たちを見ながらさて自分はどうしたものかと考えていました。まだ20代だったので、年配の社員より少しは可能性はあると言われましたが、団塊の世代で景気のいい時の大量採用により同期入社の社員も大勢いました。そのうち私にも、ある大手酒造メーカーからサンフランシスコに出す新しい事務所の駐在員を探しているのでどうかという話が舞いこんできました。

この話は学生時代から抱いてきた夢を叶えられる非常に魅力的な話でしたが、種々の理由から断念しました。また、義父からはこの際、自分が経営する会社へこないかという誘いがありましたが、考えた末これも断りました。結局は、最後まで10%の確立にかけてみようと、もし駄目なら、言葉は悪いけれど日雇い人夫をしてもいい、何でもやると開き直って心に決めると何だか胆が座った感じで少し落ち着きました。ただ、妻は自分の実母の病のこともあったのでもっと苦しかったと思います。

結果は、何とか残留組に入ることができ、新会社の名古屋支店勤務が決まりました。しかしほぼ同時に、義父の経営する会社が倒産し、義母の難病にかかっていた高額なヘルパー代が払えなくなりました。致し方なく、妻が母親の看病につくことにし、当時1歳だった長女を新宮の実家に預かってもらうことにしました。一難去ってまた一難、ふたつの会社の倒産、重病、転勤、別居と続きましたが何とかなると思うほかありませんでした。

大阪を出るとき、妻と「この三重苦を乗り越えられたら、その先にはきっといいことがあるから!」とくじけないで頑張ることを誓い合いました。親元とはいえまだ1歳だった娘は元気にやっていけるだろうかと心配はつきませんでしたが、妻も母親の看病によく頑張ってくれました。

ちょっと自分の話しが長くなり、剛やんの話が出てきませんが、この頃は、旧交を温める余裕がなかったからかもしれません。しかしこの名古屋転勤がきっかけとなってまた、意外なところで彼と再会することになるのです。

~つづく~

西 敏

 

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