新加坡回想録(5)三つの幸運

1965年、シンガポールはマレーシアから分離独立しました。それまでリー・クアンユー首相率いるシンガポール州政府は、マレーシアと一体となって国として繁栄して行こうと努めてきました。ところが、マレー系と華人系の民族についての根本的な政策の違いにより、はじき出されるという望まない形で独立することになってしまいました。それは言わば、「望まない独立」であったことを知らない人は少なくありません。

シンガポールは独立後、60年代後半、70年代、80年代と驚異的な経済発展を遂げました。そこには、リー・クアンユーというカリスマ的政治家が率いる政府(人民行動党)による的確な政策があったことは間違いない事実でしょう。しかし、それに加えて「三つの幸運」があったことも大きいと私は思います。

まず、第一の幸運として、東南アジアにおける地理的優位性を挙げなければいけないでしょう。この小さな島国はイギリスの植民地時代からこの地理的優位性を生かして東西貿易の中継地点として重要な役割を果たしてきました。活発な貿易を可能にする港湾、道路、通信などのインフラは植民地時代にある程度できていました。これに加え政府は、ジュロン地区の沼地を埋め立ててさらなる一大工業団地を整備しました。そしてこのことが、後の外国資本誘致政策に大いに役立つことになったのです。

次に、二つ目の幸運は政治面でのこと。シンガポールは多民族国家ですが、75%以上を華人が占める華人の国であると言えます。その華人国家が、北と南をマレー系(イスラム教)の国に挟まれ、民族、文化、宗教の面でも相いれない難しい関係にありました。

マレーシアのマレー人優先政策(ブミプトラ)とシンガポールが主張するすべての民族が平等であるとの政策とが相いれず結局は分離独立せざるを得なかった訳ですが、このことから、武力衝突こそなかったものの極めてとげとげしい関係が続き独立後も一触即発の状態でした。

一方、インドネシアは、63年に始めたシンガポールとの貿易禁止措置を独立後も継続していました。対インドネシア貿易は総貿易の三分の一程を占めており、地場産業のない貿易立国にとってこれは死活問題でした。ところが、独立後2か月も経たない65年10月にシンガポールと敵対関係にあったスカル大統領が失脚しました。新たに権力を握ったスハルト大統領は対外的には対立よりも強調、国内的には政治よりも開発重視の政策路線を打ち出したのです。

この事態は、隣国との友好関係なしには成り立っていかない小国の行く末に大いにプラスになりました。外国資本を呼び込むためには自国の政治的安定が第一の条件です。海外進出を図ろうとする諸外国は、治安に不安の残る国には二の足を踏むからです。このように、自助努力ではどうにもならに周辺地域の変化が二つ目の幸運をもたらしました。

最後に、当時、先進諸国の経済成長で世界貿易が飛躍的に拡大していましたが、これに伴って生産工程の分業化で、多国籍企業は安価な労働力を求めて途上国への大量投資・進出を始めていました。このことは、工業化推進のために外国企業を積極的に受け入れようとしていたシンガポールの政策とどんピシャリと一致したのです。そして進出した外国資本は開発に必要な資金、技術、輸出市場を”セット”でもってきました。外国資本は政府や地場産業では創出できない雇用機会まで提供してくれました。これが三つ目の幸運でした。

(西 敏)

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