荻悦子詩集「樫の火」より「祝福の木」

祝福の木

男に抱かれた黒い犬の目が私を射る 目が妙に光り
金色の環が生まれる 雑誌に載っている写真の中の
動かないはずの犬の目が光を放つ 犬は男の腕をす
り抜ける ベランダの木の階段を降りてくる 顔を
上げ 光の矢を放ちながら下りてくる

お皿は割れないわ プラスチックだから 誰かがそ
う言っている レモングラスの匂いがする ミルテ
の花の匂いかも知れない 娘はいないけれど 花嫁
の髪を飾る緑の葉の祝福の木 ミルテの木の苗を春
に植えた 木は白い花をたくさん咲かせ 柔らかく
撓う枝を気ままに広げた

地下室のジャズピアノも大人数のバーベキューも
僕らの好むものではなかったと 写真の中の男が話
しかけてくる 昔の隣人の声をしている 黒い犬が
木の階段を降りきった 写真の男が座っている籐の
椅子 その様式が私を過去に連れていった 昔の隣
家の屋根を越え 隣人ではなく 栗色の髪 灰色が
かった目 ケネス あなたを探しに海峡を渡る 庭
のテーブルの端でこうして瓶の蓋を開けながら 温
かい声を思い出している

私に娘がいたとして 娘の髪の色はいずれ日本の黒
だったろう だとしても あなたに会うことがあれ
ば 娘は話しかけるかもしれない あなたでしょう
か 古い田舎の博物館で母の隣にいた人は ローマ
時代の小さなガラス瓶に見入った母に それらが埋
まっていた土のことを熱心に語ったのでしたね ガ
ラス瓶の曇りをいとおしんで なかなかその場を離
れなかった 帰りの列車に乗り遅れたのでしたか

海峡がありトンネルがある 特急は間もなく対岸に
着くけれど ケネス あなたの今の髪の色を私は知
らない 四十歳の 五十歳の あなたの夏はどのよ
うでしたか くすんだ古代の青いガラス瓶 そして
あの透けるような紙の辞書 同じ辞書を少年の時に
あなたも持っていた 私の辞書はやがて革の表紙が
ぽろぽろ崩れ 私はひとりだと知ったのでした 夏
でした 娘のころにその辞書を手にできたことは幸
せだったとようやくわかりました 夏でした

黒い犬が庭のテーブルの足にぶつかってきた 光る
目で私を威嚇し 追想を裂く テーブルクロスの裾
を噛む 割れてもいいわ 私は犬をよけながらテー
ブルに厚手のグラスを並べる 他の人は犬をまるで
気にしない 雑誌のページが風で捲れた 写真の男
が再び隣人の掠れ声を立てる 椎の木の葉音のよう
にそれを背後に送って 私はひそかに湧いてくるあ
なたの声に聞き入っている 黒い犬は 庭を嗅ぎま
わり 思い出したように私を睨む

荻悦子(おぎ・えつこ)
1948年、新宮市熊野川町生まれ。東京女子大学文理学部史学科卒業。お茶の水女子大学大学院人文科学研究科修士課程修了。作品集に『時の娘』(七月堂/1983年)、『前夜祭』(林道舎/1986年)、『迷彩』(花神社/1990年)、『流体』(思潮社/1997年)、『影と水音』(思潮社/2012年)、横浜詩人会賞選考委員(2012年、16年)、現在、日本現代詩人会、日本詩人クラブ、横浜詩人会会員。三田文学会会員。神奈川県在住。

 

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