ロックフェラーの素顔(6)

  1. マスコミによる批判

 JDRの名前がマスコミに出てくるのは、「サウス・インプルーブメント・カンパニー(SIC)」騒動の時である。SICは、JDRと彼の仲間が株主となったペーパーカンパニーであった。SICは、鉄道会社と協定を結び、鉄道会社に大量の原油・石油製品の輸送を保証する見返りに、鉄道会社からは最大50%のリベートが支払われることになっていた。その一方で、SICに参加しない企業については、輸送費を大幅に値上げし、さらに、そうした非参加企業の輸送からもキックバックをSICが受け取るというものであった。

この協定は、1872年1月下旬にSICと鉄道会社の間で秘密裏に締結されたが、2月になると、「運賃が急騰しそうだ」という噂が広まっていった。これは、ライバル会社にとっては、まさに死の宣告である。そして、地元の新聞には、JDRを含むこの秘密協定に携わった者の写真が毎日1人ずつ載せられた。JDRの名前は、このような異常な形で世間に知られるようになった。

しかし、JDRはこうした世間の批判や脅迫にもたじろぐことはなかった。というのも、彼はこのような協定の結果、石油産業が直面していた問題、すなわち異常に大きな価格変動と競争による共倒れを防ぐ効果を持つと考えたからである。JDRは、自分の行為は正しく、釈明の必要はないと考え、記者たちを門前払いした。しかし、こうした沈黙は裏目に出た。JDRはその後、アメリカの大半の人間から、情け容赦のない掠奪者のようなイメージをもたれるようになったからである。

SICと鉄道会社の協定は、結局実行には移されず、SICは協定が結ばれた2ヶ月後には消滅した。しかし、この協定の存在自体が、クリーブランドの精製業者に無言の圧力として働いた。SICの噂が流れた2月17日から1カ月の間に、JDRはクリーブランドのライバル会社26社のうち22社を吸収することに成功した。

JDRは、マスコミを毛嫌いし、社員に対してもマスコミに対して口を開かない方針を徹底していた。その理由の1つは、スタンダード・オイルの成功の秘密が世間に知られることを恐れていたためである。社員の中には辛辣極まりないマスコミの批判に心を痛め、JDRに方針変更を迫る嘆願書を送る者もいた。しかし、それによって、彼のマスコミへの態度が変わったようには、思われない。JDRは、「私が富を築く力は、神からの贈り物だと思う。美術、音楽、文学の才能と同じだ」と考えていた。したがって、いくらマスコミが批判しようが、良心に一点の陰りもなく、事業を進めることができた。

1890年代半ばにJDRは引退し、マンハッタンのブロードウェイ26番地にあるスタンダード・オイルの本社には、めったに姿を見せなくなった。(ただし、引退の公表はされず、「社長」の肩書はつけられたままであった。)結局、現役生活の間、彼はマスコミの前に、自ら姿を現すことはほとんどなかったということになる。

しかし、彼の名は、引退後に一層有名になった。それも悪い形で。それは、女性ジャーナリスト、アイダ・ターベルが1902年11月から「マクルーアズ・マガジン」に始めたスタンダード・オイルに関する連載によってである。「マクルーアズ・マガジン」は、アメリカ雑誌の黄金時代の中でも、最も強い影響力を持っていた。その連載の中で、ターベルは、秘密のベールに包まれていたJDRの過去を洗い出した。

当初3回で終わる予定の連載は、その人気の高さから、結局11回も続いた。その結果、この連載記事は、JDRをアメリカで最も憎まれる人物に仕立て上げた。しかし、一見客観的な分析に見える記事の根底には、彼女のJDRに対する個人的な恨みがひそんでいたことを忘れるわけにはいかない。

彼女は、2つの面でJDRに恨みを持っていた。それは、彼女の父親の創業した石油事業が、SICによってつぶされたこと。さらに、もっと重要なことは、彼女の弟が設立にかかわったピュア・オイル・カンパニーが、スタンダード・オイルの最強の挑戦者であったことである。アイダ・ターベルは、弟とともに、二人三脚でJDRを攻撃した。後になってみれば、彼女の書いた連載記事には、多くの誤りが含まれており、決して中立的なものとは言えない。それにも拘わらず、この連載に対して、JDRが沈黙を貫いたのは大失敗であった。世間は、この沈黙を記事の内容を認めていると受け取ったからである。

齋藤英雄

 

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