ロックフェラーの素顔(8)

3) ロックフェラー医学研究所

「神が人類のために授けてくださった財産をどのように使うか」という問題は、1900年に入りスタンダード石油の持ち株などの資産価値があがるにつれ、JDRにとって、より深刻なものとなっていった。教育に次いで彼が目を付けた分野は、医療であった。当時の医学書を読むと、病気の症状は解説してあるが、原因となる病原菌についてはほとんどわかっていないということが判明した。病気の原因をつきとめるための医学研究所は、まさに人類のために貢献するという目的に見事に一致していた。

ゲイツは、パリのパスツール研究所(1888年設立)や、ベルリンのコッホ伝染病研究所(1891年設立)と同じような研究所をアメリカに作ることを進言した。そして1901年に、ロックフェラー医学研究所が設立された。関係者は、JDRがロックフェラーという名前を使うことを許したことに驚いた。JDRは、研究所のトップには最高の人材をスカウトするよう求め、ロックフェラー医学研究所の理事長として、ジョンズ・ホプキンズ大学の初代学部長であったウィリアム・ウェルチ博士が招かれた。そして、ウェルチは、医学研究所の初代所長に、彼がアメリカで最も優秀な病理学者とみなしていた自分の弟子であるサイモン・フレクスナーを指名した。フレクスナーは、ケンタッキー州出身のドイツ系ユダヤ人であり、彼の几帳面な性格はこの研究所にうってつけであった。

フレクスナーは、この役割を引き受ける条件として、研究員の能力に見合った高い給与と、臨床的な研究が行えるよう小さな附属病院を併設することを求め、その約束をとりつけることに成功する。多くの悲観的な憶測を覆し、この研究所は医科学上の大きな発見を次々になしとげた。そして、有能な研究者を多く輩出した。野口英世もその一人である。現在ロックフェラー大学となっているこの研究所からは、今日に至るまで23名ものノーベル賞受賞者を生むことになった。

ロックフェラー大学

JDRは医学研究所に続き、さまざまな慈善事業に取り組んだ。なかでも、1913年に設立されたロックフェラー財団は、世界最大の資金援助財団となった。財団の資金は、特に医学や医学教育、公衆衛生といった分野を中心に投じられた。聖路加看護大学を卒業した従姉からは、「ロックフェラー財団のお陰で高度な看護教育を受けられ、今でも感謝している」との話を聞いた。「ロックフェラー財団の寄付」というテーマで調査をしたら、全世界でどれほど広範な寄付が行われてきたのか、想像もつかないほどである。こうしてロックフェラーは、慈善事業家して不滅の名声を残すこととなった。

齋藤英雄

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