ロックフェラーの素顔(9)

6.子供達の悲劇

 ジョン・D・ロックフェラー(JDR)は、4人の女の子と1人の男の子をもうけた。エリザベス(通称ベッシー)、アリス、アルタ、イーディス、ジョン(通称ジュニア)である。ただし、二女のアリスは、幼児期に亡くなった。JDRは、巨大な富が子供の教育に悪影響を及ぼすことを恐れた。ロックフェラー家の子供たちは、幼い時から倹約と勤勉を叩き込まれた。たとえば、自転車は1台のみ買い与え、これを姉弟が交替で使うようにさせた。小遣い帳をきっちりとつけさせ、帳簿と手持ちのお金が合うように、お金の管理を徹底させた。

しかし、JDRの厳格なしつけは、逆にこうした生活に反発する子供や、ひどく神経質な子供を生みだした。もちろん、ロックフェラーの知名度の高さ、あるいは世間の反発も、子供達の人生に大きな影響を与えることとなった。

(1)長女 ベッシー

1866年生まれのベッシーは、1889年に、大学で教鞭を取るチャールズ・オーガスタス・ストロングと結婚した。2人はしばらくシカゴで暮らしていたが、ベッシーの健康がすぐれないため、1895年に厳しい気候のシカゴを離れ、ニューヨークに引っ越す。ベッシーは36歳の時、おそらく脳卒中か心臓病に見舞われ、一気に老けこんでしまった。さらに、このことにより精神状態も悪化し、実際には、有り余るほどの財産と収入があったのにもかかわらず、貧乏になることを病的なほど恐れた。妻の心身の病は、チャールズの運命をも惨めなものとした。わけのわからないことをしゃべる妻の介護に疲れたチャールズは、ベッシーを伴って、フランスへ渡り、精神病の専門医の診察を受けさせることにした。ベッシ―は40歳の若さでこの世を去った。

(2)三女 アルタ

アルタは、おとなしく従順で、三姉妹の中では、最もJDRに愛情を感じていた。JDRも、感受性の高いアルタを一番気にかけていた。アルタは、弟のジュニア同様、ひどい頭痛に悩まされ、また子供の時に猩紅熱にかかったことから、片方の耳が遠くなってしまった。アルタは、とんでもない男に熱をあげて、度々家族が救援に乗り出すという騒動を繰り返した。彼女は結局、エズラ・パーマリー・プレンティスという弁護士と結婚する。しかし、パーマリーは、完全主義者で、堅苦しく、かつ高慢であった。そのため、JDRとパーマリーの間は険悪となり、それがアルタとJDRの関係をも悪化させた。アルタとパーマリーは、マサチューセッツ州に農場を購入し、田園生活にのめりこんでいった。そして、農場と子供が中心にまわる簡素な生活を貫いた。

(3)末娘 イーディス

イーディスは、終生神経の病に悩まされた。1893年には、ベッシーとともに、フィラデルフィアの神経科医で、安静療法を受けた。彼女は回復すると、プリンストン大学を卒業したばかりの、ハロルド・マコ―ミックと結婚した。ハルルドは、インターナショナル・ハーベスターの創業者の息子である。結婚により、ロックフェラー家の禁欲的な生活から解放されたイーディスは、シカゴの豪邸に移り住み、社交界の女王として、JDRが忌み嫌った虚栄心や快楽主義に満ちた生活を送った。また、芸術家、文化人、社交界の名士と交友し、芸術の庇護者としての名声を得た。

イーディスは、5人の子供をもうけたが、このうち2人を幼い時期に失った。この結果、ハロルドは鬱状態に陥り、スイスの臨床実験精神科医、カール・ユングの治療を受けた。イーディスも長い間、躁状態と鬱状態を繰り返していたが、1905年から1907年に腎臓結核に冒され、邸宅に引きこもるようになった。1912年、ユングがニューヨークに滞在していた時、イーディスは、彼の精神分析を受けた。ユングは、イーディスを「潜在性の統合失調症」と診断した。イーディスは、ユングに毎日診察してもらうため、スイスのチューリッヒに滞在する。しかし、ユングの8年間にわたる治療にも拘わらず、イーディスは、広場恐怖症に苦しみ、旅行恐怖症で、列車には20分以上乗っていることができなかった。なんとか、アメリカに帰国したものの、自分も夫も不倫生活をしており、離婚。さまざまな事業に手を出しては失敗し、JDRの救済を求め続ける人生となった。

齋藤英雄


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