異変(その2・運命なるもの)

院長は母と同じ年くらいの、がっしりした体格で頼もしい感じの人だった。母と私に、ゆっくりした口調でこう言った。
「カメラで言えばフィルムにあたる眼底の網膜が剥がれています。視力の回復は望めませんが、放っておくと眼球が小さくなって外見が悪くなります。女のお子さんですし、手術しましょう。」

入院したのは、普通の家の2階みたいなところだった。
西日が差す暑い部屋で、畳敷きにベッドが置いてあった。
翌日手術を受けたが、そのときのことは記憶からきれいに抜け落ちている。全身麻酔だったのだろうか。

両眼に包帯がきつく巻かれ、その晩はできるだけ姿勢を変えず、仰向けのまま寝るように言われた。
母は私が動いたら仰向けに直そうと、一睡もせずに見守ってくれたそうだ。私は天井を向いたまま、全く寝返りを打たなかったという。

翌日の回診のとき包帯が取られた。右目はもう、光を取り戻していた。「何か見えますか?」と聞かれて、「ぼんやりだけど、明るく見えます。」と答えた。院長の「え、見える?」と確認する声は大きく、ちょっと弾んでいるように聞こえた。

それからの毎日は、ベッドに寝たきりで、診察の時を除けば包帯が解かれることはなかった。
そのうち、できあがった新しい病室に移ることになった。院長は私を負ぶって階段を下り、病室までの結構長い距離を運んでくれた。大きな病院の院長が人任せにせず、自分で負ぶってくれている。広い背中で揺られながら私は、温かいものを感じていた。

手術から2週間経ったころ、包帯は右眼だけになり、さらに1週間くらいでガーゼになった。横向きでいいとか、上半身を起こしていいとか、徐々に許可が出たが、都合3週間ベッドから下りられなかった。
ようやく歩いてトイレに行ってよいと許しがあったときには、足が萎えてひとりで歩くことができなかった。

それから20日くらい後だったろうか、退院前の検査を終えた院長は「手術はとてもうまくいきました。あなたもよく精進したし。」と言った。『精進』という古風な言い回しがなんだか面映ゆかった。

あのころの入院には、家族が付き添うか、付添婦さんを雇うことになっていた。もう何年もM病院専属で付添婦をしているお喋りな小母さんや、同室の患者さんの話から、それまで聞いたこともない、いろんな眼の病気があることを知った。

私の病気、網膜剥離は、片方の眼が罹ると、もう片方にも起きる確率が高い。再発の危険性もある。時期を逃すと、あるいは手術がうまくいかないと、失明につながる。
16歳になったばかりの私は、以後ずっと、その不安に怯えることになった。

高校への通学途上でバスを乗り換えるとき、背広姿に白い杖の、ほっそりした若い男性をしばしば見かけた。私もそうなったらどうしようという不安に襲われた。
車のヘッドライトが虹の輪のように見え、私の斜め向かいのベッドに入院していた女性と同じ病気ではないかと、慌てて診察を受けに行ったこともある。

自覚症状が出る前に検査で発病がわかり入院、手術を受けたこと、ごく初期にレーザー治療で治ったこともある。
この病気を抱えたことは、その後の人生を選び取っていく上での、大きな鍵となった。

私の検査通院は今も続いている。

ところで、それほど自分の病気に悩んでいたはずの私が、「視力の回復は望めません」という言葉をあたりまえに理解したのは何と、10年も経ってからのことだった。
当時見えなくなっていた右眼の視力の回復が望めないということは、つまりは失明するということである。
なのに私は、手術をしても強い近視が治らないという意味だと勝手に思い込んだ。

あのときの院長の言葉は今でも諳んじることができる。そう言われたときの診察室の様子や院長の声までも。
だからその思い込みは、無意識に自分を守るためのものだったという気がする。
でなければ、高校1年生から25歳までの、誰もが人生の岐路に何度も立たされる10年間を、しかも計3度の手術入院を繰り返しながら、うまく乗り切ることはできなかっただろう。

私は他の人によく「何の悩みもないみたい、元気一杯に見える。」と言われる。「そんなことないよ、たくさんあるよ。」と答えてはいるけれど、もしかしたら私は、生来の楽天家かもしれない。

優 海


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