異変(その1・白い巨塔)

それは、じき16歳の誕生日を迎える、高校1年生の6月のことだった。
浴室の戸を開けた私は、いきなり透明なドアにぶつかって押し戻されたような感じを受けて、その場に立ちすくんだ。反射的に左眼をつぶると、丸い天井灯が上弦の月のように欠けて見えた。胸の鼓動が高く、速く、聞こえるような気がした。

翌日、近所の眼科で診察を受けた。院長は首を傾げながら、九州では一番権威のある市内のQ大病院への紹介状を書いてくれた。
病院では、若い医師の予診のあとでベテラン医師が診てくれた。そして、「心配するような病気はありません。」と。
その「病気」とは、どうも、脳腫瘍らしかった。

しかし、何日経っても、私の右眼は普通に見えるようにはならなかった。夜、期末試験の勉強しているとき、ふと気づくと、教科書の読もうとしているまさにその行が、右眼では全然見えていないのだ。

泣きたい気持ちで「おかあさん、見えない。」と言いに行くと、父から「心配ないと言われただろう。きみがそんなことを言うとおかあさんが眠られなくなる。辛抱することを覚えなさい。」と叱られた。
父は戦前不治の病と言われた結核を、雪の降りしきる金沢で全部の窓を開け放しにして寝て治した「意志」の人である。こらえ性のない私が腹立たしかったのだ。

しかし、私の眼は治るどころか、夜になると暗闇に稲妻が走るようになった。黙っているのも口に出すのも両方怖くて、毎日高校に通うことで自分を支えていた。

夏休みの初日から体育の授業として始まるはずの水泳教室が、プールの水が汚れていて中止になった。ほんとうの夏休みが始まった。
ついに私は母に、右眼が見えないこと、夜に稲妻が走ることを打ち明けた。
驚いた母に連れられて、Q大病院を再受診した。

前回と同じふたりの医師が診てくれた。ほかに患者がいなくなるくらいまで時間をかけた診察の後、年長のT医師が「困ったな」と呟くのが聞こえた。そして「手術をしないといけないが、夏休みでベットが満杯になったばかり。2〜3週間かかるだろうが、空いたらすぐに連絡する。それまで家で静かに寝ておきなさい。」と言った。それでよいのかと念を押す母に「昔は寝て治した病気だから大丈夫だ。」とも。

帰り道、母は私を連れて、病院から1キロほど離れた伯母の家に向かった。
今思い返して不思議なのは「家で静かに寝ているように」と指示されたのに、母はなぜそんな寄り道をしたのだろう。
もしかしたら、まっすぐ帰宅して父の帰りを待つ時間が耐えられないと思ったのかもしれない。

ともかくも、そのことが、私の運命を大きく変えることになった。

話を聞いた伯母は、そこからまた500mほど先のH医師に診てもらえば、と勧めた。
もとQ大病院の偉い先生だった人で、とても上手だと評判だから、と。

市内の幹線道路に面した商店の2階にあるクリニックは、伯母の言葉通りの評判らしく、狭い廊下や待合室に患者が溢れていた。診察机のすぐ横にまで椅子が並べられていて、プライバシーもなにもありはしなかった。

普通の視力検査表は見えないので、検査技師が手に持った大きなC の字型の厚紙を動かして、どこが開いているかと聞いた。
右眼だけでは、10cmの距離まで近づけられても見えない。見えないが、人が大勢いるところでそう言うのは恥ずかしくて、でたらめを答えた。

H医師は、「すぐ手術しなければ。Q大病院では誰が診たか。」と聞いた。T先生、と答えたところ、一瞬黙りこんだ。「今手術しても治るかどうかわからないのに、2~3週間も待ったら、絶対に治らない。最初に誤診したから、今さらすぐに入院しろと言えないのだ。T先生は入退院の権限を持つ医局長だから、正面切って入院させてはもらえない。お父さんがNに勤めているのなら、コネで入院させてもらいなさい。」

それまで涙ひとつこぼさないでいた私の緊張の糸が、音を立てて切れた。人目もはばからず泣きじゃくった。父がコネを作るようなことを決してしない人間だということをよく知っていたから。

H医師はしばらく考えた後、「では、私の弟子の中で一番腕がいいのが開業しているから。」と言いながら電話をかけ、「いや、そんなことはいいよ」と頼んでくれた。
M病院は全面立て替え中で、1週間後の竣工まで待ってほしいというのに、即入院の了解を取り付けてくれたのだ。

母と私はその足でM病院に向かった。あたりはもう、薄暗くなっていたが、院長が診てくれ、翌日の入院が決まった。

Q大病院から入院指示の通知が来たのは、私が手術を受けて10日以上過ぎた頃だった。  (つづく)

優 海

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