ここでは、過去に掲載された記事や作品を週替わりで紹介しています。↡

緑の環境委員会24 (終)

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親子みち草散歩図鑑24

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これは何の花でしょう?3

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佐藤春夫
館長のつぶやき〜「佐藤春夫の少年時代」55

春夫、生田長江に同行 (一) 春夫は後年、生田長江との出会いについて、次のように語っています(「文芸」昭和31年5月「対談・現代文学史=スバル時代=」)。 ああ、それでね、その講演会の時に長江先生とぼくは肝胆相照らした、 […]

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佐藤春夫
館長のつぶやき〜「佐藤春夫の少年時代」54

春夫の講演会登壇事件(二) 生田長江の日記の8月21日の条、「地酒に中てられたのか昼迄頭が上らず。夕方になつてもまだふらふらとして居る。がまんして夜の「大演説会」へ行く。」とあって、講師の到着が遅れて、春夫が急遽引っ張り […]

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佐藤春夫
館長のつぶやき〜「佐藤春夫の少年時代」53

春夫の講演会登壇事件(一) 春夫の反明星の色彩が濃かった「趣味」歌壇への投稿は、明治41年9月から始まって、42年に入っても続けられたようです。「新声」への掲載も41年12月、42年1月に見えます。 「趣味」「新声」とも […]

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佐藤春夫
館長のつぶやき〜「佐藤春夫の少年時代」52

春夫の「革命に近づける短歌」(二) 春夫が「有力なる味方」と同調する内藤晨露は、明治21年新潟県長岡の生まれ、明治38年上京、前田夕暮の世話になり、雑誌「向日葵(ひぐるま)」の編集などを助けて、自身も歌集「旅愁」を刊行す […]

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佐藤春夫
館長のつぶやき〜「佐藤春夫の少年時代」51

春夫の「革命に近づける短歌」(一) 「急進党」「電気党」(比較的はやく普及した新宮の電気事情ではありますが、この頃はまだようやく電線がお目見えし始めた頃です)、と揶揄された春夫らでしたが、明治41年末に春夫は「革命に近づ […]

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佐藤春夫
館長のつぶやき〜「佐藤春夫の少年時代」50

春夫らの明星調からの離反 再び、ここで中野緑葉の回想に戻りますが、その前に中央の文学界の動向を辿っておかなければなりません。 明治30年代の浪漫主義文学を先導したのは、与謝野寛が主宰した「明星」であったことは、誰もが認め […]

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佐藤春夫
館長のつぶやき〜「佐藤春夫の少年時代」49

復刊「はまゆふ」とその挫折 徐福墓畔邸の記述が、上京後の大正時代の春夫に及んで長くなりましたが、ここで春夫や奥栄一の新宮中学時代に戻ります。 和貝夕潮(彦太郎)が新宮中学を卒業するのは明治40年3月、直後に新宮男子高等小 […]

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佐藤春夫
館長のつぶやき~「佐藤春夫の少年時代」(48)

下村悦夫と富ノ澤麟太郎 (二) 横光利一も翌年「富ノ澤の死の真相」(「文藝春秋」2月号)を書いて、自分の誤解であった旨の発言をし、非を詫びていますが、このことについて春夫の側には当時弁明めいた発言は皆無であるものの、春夫 […]

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佐藤春夫
館長のつぶやき~「佐藤春夫の少年時代」(47)

下村悦夫と富ノ澤麟太郎(一) もう少し大正13年の徐福墓畔と春夫らの文学仲間の存在を追ってみます。 人家が増え、新開地になるにつれて、徐福の墓の境内は一時わずかに30坪ほどになったといいますが、大正5年に熊野地青年会の幹 […]

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佐藤春夫
館長のつぶやき~「佐藤春夫の少年時代」(46)

思索の場としての徐福墓畔(二) 春夫に「恋し鳥の記」(大正14年7月「女性」)と題した文章があります。新開地となった徐福墓畔、徐福町と名づけられた辺の変わりように、はなはだ辛辣な目を向けています。 明治42年「軽便(けい […]

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佐藤春夫
館長のつぶやき~「佐藤春夫の少年時代」(45)

思索の場としての徐福墓畔(一) 熊野の地で方士徐福が「徐福さん」と慕われ始めたのは何時の頃からでしょうか。とにかく「徐福の墓」があるのは、熊野新宮だけだということで、観光の目玉の一つになっていて、いまではJR新宮駅前には […]

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佐藤春夫
館長のつぶやき~「佐藤春夫の少年時代」(44)

先輩・中村楠雄のことほか すでに触れたように、前回紹介した写真の主のひとりの中村楠雄は、春夫にとっては「お下(しも)屋敷」の、大前俊子の姉の家の集まり仲間。先輩の「優等生」というところ。やがて大前俊子を妻として迎えるので […]

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佐藤春夫
館長のつぶやき~「佐藤春夫の少年時代」(43)

春夫の「自我意識」の象徴―「佐藤春夫殿下小伝」 ここで、落第した春夫の、以後の新宮中学生活に戻ってみます。 明治41年3月21日、新宮中学校内で茶話会形式での謝恩会が開かれ、23日には第3回卒業式が挙行されました。30名 […]

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佐藤春夫
館長のつぶやき~「佐藤春夫の少年時代」(42)

明治39年の与謝野寛らの来訪 第1次「はま(浜)ゆふ」は、現在7号(明治39年1月)以降しか残されていなくて、21号で終刊したようですが、17号からは、西村伊作の王子ケ浜風景の画が表紙を飾り、裏表紙にも伊作の別々の挿絵が […]

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佐藤春夫
館長のつぶやき~「佐藤春夫の少年時代」(41)

「俳句」から「短歌」へ―熊野新宮の文化状況の変遷 文学に関心を示す若い学徒たちにとっては、春夫が「僕は短歌から出発した」と常に口にしていたということは、当時の新宮の「文化状況」を考えてみることによって、その意味を納得する […]

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佐藤春夫
館長のつぶやき~「佐藤春夫の少年時代」(40)

春夫の沖野作品への違和 沖野岩三郎の「自転車」と言う作品には、春夫は否定的でした。父親宛ての書簡(推定年・大正7年と全集では採られているが、内容を勘案すれば大正6年が正しい・8月2日)で、この作品には人間が描かれていない […]

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佐藤春夫
館長のつぶやき~「佐藤春夫の少年時代」(39)

沖野岩三郎、春夫の家族を描いた短編「自転車」 明治9年に日高郡寒川(そうかわ)村(現日高川町)に生まれた沖野岩三郎が、明治学院で学んだ後、キリスト教新宮教会牧師として赴任してくるのは、明治40年6月、約1年前、夏期伝道で […]

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佐藤春夫
館長のつぶやき~「佐藤春夫の少年時代」(38)

奥栄一との交友(二) 後年、春夫は「悪女礼讃」という文章(昭和33年5月「婦人画報」・全集未収録・「熊野誌」60号で紹介)で、まず悪女の定義の難しさを手始めに、「悪女とは強烈な個性に生きる婦人」とし、「本当に生きる彼女ら […]

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佐藤春夫
館長のつぶやき~「佐藤春夫の少年時代」(37)

奥栄一との交友(一) 春夫に「落第祝福」という一文があります(「婦人公論」昭和2年3月号)。 「恐怖といふものはそれを予想する時に一層大きい。つまり不安である。私は全くその予想的恐怖―不安なしに落第してしまつた。(中略) […]

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佐藤春夫
館長のつぶやき~「佐藤春夫の少年時代」(36)

館長のつぶやき―「佐藤春夫の少年時代」(36) 「反骨少年」の誕生―3年次での落第 春夫は「詩文半世紀」の中で、「落第に逆効果があって、わたくしは嘘から出たまことのように、本当に文学者になってやるぞという気になって来た。 […]

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