2023年9月
館長のつぶやき〜「佐藤春夫の少年時代」60
与謝野寛の作品掲載(一) 春夫が停学中、いくつかの作品を無著名で「熊野実業新聞」に投稿、掲載されていたであろうことを述べてきましたが、この頃、同紙に盛んに作品を発表しているのは、夏に再来遊した鉄幹・与謝野寛です。そうして […]
館長のつぶやき〜「佐藤春夫の少年時代」59
春夫の試作、戯曲「寝ざめ」 「脚本・現代劇・「寝ざめ」試作」は、10月20日付・22日付・24日付の3回連載です。「現代劇・試作」がタイトルに付されています。 設定は、「明治四十某年九月初旬」、場所、背景は「東京付近の海 […]
館長のつぶやき〜「佐藤春夫の少年時代」58
熊野実業新聞への投稿 「熊野実業新聞」は、明治33年3月、社主津田長四郎、主筆浅田江村で発行されました。それより先、明治29年12月に社主宮本守中、主筆山田菊園で「熊野新報」が発刊されていて、新宮町内の政治的立場を二分し […]
館長のつぶやき〜「佐藤春夫の少年時代」57
春夫への無期停学処分 この年(明治43年)8月20日から、新宮中学では東牟婁郡内の夏期講習会が開かれていて、小学教員50名余が参加、その多くが21日夜の寛らの学術講演会にも顔を見せていました。ちょうどその頃、内務省の地方 […]
館長のつぶやき〜「佐藤春夫の少年時代」56
春夫、生田長江に同行(二) 講師一行は8月26日新宮町を出発しますが、長江日記によれば、「朝の七時半に新宮を立つ。佐藤春夫君十八歳京都まで同行せんとす。那智まで四里。第一の滝は濫りに入るを禁じられたるところへ佐藤君と共に […]
館長のつぶやき〜「佐藤春夫の少年時代」55
春夫、生田長江に同行 (一) 春夫は後年、生田長江との出会いについて、次のように語っています(「文芸」昭和31年5月「対談・現代文学史=スバル時代=」)。 ああ、それでね、その講演会の時に長江先生とぼくは肝胆相照らした、 […]
館長のつぶやき〜「佐藤春夫の少年時代」54
春夫の講演会登壇事件(二) 生田長江の日記の8月21日の条、「地酒に中てられたのか昼迄頭が上らず。夕方になつてもまだふらふらとして居る。がまんして夜の「大演説会」へ行く。」とあって、講師の到着が遅れて、春夫が急遽引っ張り […]
館長のつぶやき〜「佐藤春夫の少年時代」53
春夫の講演会登壇事件(一) 春夫の反明星の色彩が濃かった「趣味」歌壇への投稿は、明治41年9月から始まって、42年に入っても続けられたようです。「新声」への掲載も41年12月、42年1月に見えます。 「趣味」「新声」とも […]
館長のつぶやき〜「佐藤春夫の少年時代」52
春夫の「革命に近づける短歌」(二) 春夫が「有力なる味方」と同調する内藤晨露は、明治21年新潟県長岡の生まれ、明治38年上京、前田夕暮の世話になり、雑誌「向日葵(ひぐるま)」の編集などを助けて、自身も歌集「旅愁」を刊行す […]
館長のつぶやき〜「佐藤春夫の少年時代」51
春夫の「革命に近づける短歌」(一) 「急進党」「電気党」(比較的はやく普及した新宮の電気事情ではありますが、この頃はまだようやく電線がお目見えし始めた頃です)、と揶揄された春夫らでしたが、明治41年末に春夫は「革命に近づ […]
館長のつぶやき〜「佐藤春夫の少年時代」50
春夫らの明星調からの離反 再び、ここで中野緑葉の回想に戻りますが、その前に中央の文学界の動向を辿っておかなければなりません。 明治30年代の浪漫主義文学を先導したのは、与謝野寛が主宰した「明星」であったことは、誰もが認め […]
館長のつぶやき〜「佐藤春夫の少年時代」49
復刊「はまゆふ」とその挫折 徐福墓畔邸の記述が、上京後の大正時代の春夫に及んで長くなりましたが、ここで春夫や奥栄一の新宮中学時代に戻ります。 和貝夕潮(彦太郎)が新宮中学を卒業するのは明治40年3月、直後に新宮男子高等小 […]
館長のつぶやき~「佐藤春夫の少年時代」(48)
下村悦夫と富ノ澤麟太郎 (二) 横光利一も翌年「富ノ澤の死の真相」(「文藝春秋」2月号)を書いて、自分の誤解であった旨の発言をし、非を詫びていますが、このことについて春夫の側には当時弁明めいた発言は皆無であるものの、春夫 […]
館長のつぶやき~「佐藤春夫の少年時代」(47)
下村悦夫と富ノ澤麟太郎(一) もう少し大正13年の徐福墓畔と春夫らの文学仲間の存在を追ってみます。 人家が増え、新開地になるにつれて、徐福の墓の境内は一時わずかに30坪ほどになったといいますが、大正5年に熊野地青年会の幹 […]
館長のつぶやき~「佐藤春夫の少年時代」(46)
思索の場としての徐福墓畔(二) 春夫に「恋し鳥の記」(大正14年7月「女性」)と題した文章があります。新開地となった徐福墓畔、徐福町と名づけられた辺の変わりように、はなはだ辛辣な目を向けています。 明治42年「軽便(けい […]
館長のつぶやき~「佐藤春夫の少年時代」(45)
思索の場としての徐福墓畔(一) 熊野の地で方士徐福が「徐福さん」と慕われ始めたのは何時の頃からでしょうか。とにかく「徐福の墓」があるのは、熊野新宮だけだということで、観光の目玉の一つになっていて、いまではJR新宮駅前には […]
館長のつぶやき~「佐藤春夫の少年時代」(44)
先輩・中村楠雄のことほか すでに触れたように、前回紹介した写真の主のひとりの中村楠雄は、春夫にとっては「お下(しも)屋敷」の、大前俊子の姉の家の集まり仲間。先輩の「優等生」というところ。やがて大前俊子を妻として迎えるので […]
館長のつぶやき~「佐藤春夫の少年時代」(43)
春夫の「自我意識」の象徴―「佐藤春夫殿下小伝」 ここで、落第した春夫の、以後の新宮中学生活に戻ってみます。 明治41年3月21日、新宮中学校内で茶話会形式での謝恩会が開かれ、23日には第3回卒業式が挙行されました。30名 […]
館長のつぶやき~「佐藤春夫の少年時代」(42)
明治39年の与謝野寛らの来訪 第1次「はま(浜)ゆふ」は、現在7号(明治39年1月)以降しか残されていなくて、21号で終刊したようですが、17号からは、西村伊作の王子ケ浜風景の画が表紙を飾り、裏表紙にも伊作の別々の挿絵が […]
館長のつぶやき~「佐藤春夫の少年時代」(41)
「俳句」から「短歌」へ―熊野新宮の文化状況の変遷 文学に関心を示す若い学徒たちにとっては、春夫が「僕は短歌から出発した」と常に口にしていたということは、当時の新宮の「文化状況」を考えてみることによって、その意味を納得する […]