2023年10月
館長のつぶやき〜「佐藤春夫の少年時代」77
おわりに(3) 春夫の「反骨」を培った土壌と共に、父と母とによって育まれた「人格」も無視できません。生田長江の回想と共に、与謝野晶子も家庭教育の影響に触れています。 春夫自身の父や母に対する恩恵は、以下の言葉に尽きていま […]
山ちゃんの気まま旅62~若狭路散策と箱館山山頂
10月18日、晴天好日、若狭・三方五湖迄ドライブを楽しみました、最初の写真は三方五湖を見下ろす梅丈岳山頂までのリフト、乗車場に黄土色の物体、それが写真2枚目にある、若狭の民話ー大名タヌキ像です。 帰路は琵琶湖西岸の箱館山 […]
館長のつぶやき〜「佐藤春夫の少年時代」76
おわりに(2) 大正3年12月、春夫はまだ無名の女優川路歌子(遠藤幸子(ゆきこ)・明治29年9月生)と同棲し、本郷区追分町9に新居を構えます。友人の武林無想庵が、春夫らをモデルに「新しい男女」を「読売新聞」に発表するのは […]
館長のつぶやき〜「佐藤春夫の少年時代」75
おわりに(1) 春夫の上京までを目途に、その「反骨精神」の誕生の由来、醸成の土壌のようなものを探ってみようと出発したのでしたが、上京後もなかなか筆を納めきれなかったのは、上京して真直ぐに「文学」の道に邁進し、「大成」への […]
館長のつぶやき〜「佐藤春夫の少年時代」74
番外編・春夫の反骨精神の行方 2010年10月11日付の朝日新聞の投書『声』欄に次のような文章が載りました。「浅沼殺害 絶句した佐藤春夫」の見出しです。全文を引いてみます。 「1960年10月12日、私は東京の佐藤春夫邸 […]
館長のつぶやき〜「佐藤春夫の少年時代」73
「愚者の死」の製作 (続) 愚者の死」が、この年「スバル」の3月号に発表されたとき、いま一般に普及しているような、「うべさかしかる商人の町は歎かん」と「ー町人は慎めよ」との間の行空(ぎょうあ)きはありません。ひとつの纏( […]
山ちゃんの気まま旅55~奈良公園の昼下がり
このところの気温上昇、昨日は汗ばむ位の陽気に・・・ 奈良公園でくつろいでいる、この2頭はどういう関係なのでしょうか? 何とも言えない、リラックスしたこの表情、春ですねえ。 山仲春男
館長のつぶやき〜「佐藤春夫の少年時代」72
「愚者の死」の製作 「千九百十一年一月二十三日/大石誠之助は殺されたり」で、「愚者の死」は始まる。 雑誌「スバル」の、1911年(明治44)3月号に発表されたこの詩は、一般に思想的な意味合いを帯びたものとして、「傾向詩 […]
館長のつぶやき〜「佐藤春夫の少年時代」71
神田須田町の停車場 東京神田須田町の電車停留所の人ごみのなかで、3人の青年が電車待ちをしていました。3人とも、1910年(明治43)3月新宮中学を卒業した同級生で、上京10ケ月足らず、多少酒が回った様子でした。ひとりは、 […]
館長のつぶやき〜「佐藤春夫の少年時代」70
「反骨」から「日本人ならざる者」の自覚へ 春夫が新宮中学を卒業して、7月の第1高等学校受験を目指し、受験に挑んだが挫折、与謝野寛らの勧めもあって、親交を深めつつあった堀口大学とともに、永井荷風を慕って改めて慶応義塾予科に […]
山ちゃんの気まま旅54~伊吹山「セツブンソウ」自生地を散策
滋賀県米原市の伊吹山・山麓の深部大久保地区にて、「セツブンソウ」自生地を散策してきました。キンポウゲ科のこの植物は日本原産、別称「春を告げる花」「春のプリンセス」と言われています。 日陰に残雪が残る奥深い山地の雑木林で可 […]
館長のつぶやき〜「佐藤春夫の少年時代」69
春夫の上京(2) 春夫が言う国漢の2先生とは、小野芳彦と小田穣(みのる)とです。ふたりとも父豊太郎の知己。小田は千畝と号する新宮俳句界の草分け的存在で、漢詩も物して、新宮8景の漢詩を残しています。ちなみに8景を記せば、「 […]
館長のつぶやき〜「佐藤春夫の少年時代」68
春夫の上京(1) こうして春夫の中学時代は終わり、明治43年3月31日新宮を出立して上京の途につきます。当日、春夫が挨拶に小野芳彦を訪れたことが、その日記から窺えます。「春夫君告別に来る。第一高文科志望の由」とあります。 […]
館長のつぶやき〜「佐藤春夫の少年時代」67
ストライキ事件の余波と「大逆事件」前夜 明治43年の年が明け、春夫が卒業までの数日をどのように過ごしたのかははっきりとは分かりません。ただ、「会誌」7号(明治44年3月)の巻頭に載っている卒業記念写真には写っています。そ […]
館長のつぶやき〜「佐藤春夫の少年時代」66
「若き鷲の子」の詩の解釈と「危機」からの脱出 中学卒業直前の春夫の動向に戻ります。春夫は書いています。―「中学五年の時に、与謝野寛氏と、生田長江氏と、石井柏亭氏との三人が、東京から私の故郷の紀州新宮の町に来て、町の劇場で […]
館長のつぶやき〜「佐藤春夫の少年時代」65
生田春月との関係(二) 春月は、大正3年以来、亡くなる昭和5年までの足かけ16年間を、弁天町・天神町など東京の牛込の地で過ごしました。詩作のかたわら独逸語専修学校の夜学でドイツ語を学んだ春月は、ハイネなどドイツ文学を紹介 […]
館長のつぶやき〜「佐藤春夫の少年時代」64
生田春月との関係 (一) 先に紹介した、罫紙12枚に記された、仮称「生田長江 紀州旅行日記」と言われるものは、長江が京都から東京に帰る東海道線の車中で、鳥取の淀江で篭居している春月の下へ激励の書簡と共に、届けられたもので […]
館長のつぶやき〜「佐藤春夫の少年時代」63
春夫不在の新宮中学ストライキ 2教諭が生徒の同盟休校を煽動したという廉(かど)で実質退任に追い込まれていますが、表立った動きは何もないようですから、体よく馘首の憂き目にあったと解すべきでしょう。物理学担当の原田岩平と修身 […]
館長のつぶやき〜「佐藤春夫の少年時代」62
新宮中学ストライキへの展開とその余波 佐藤春夫の無期停学への風当たりは、大石誠之助らを中心に新宮中学への教育批判から、寺内校長個人への批判へと波紋を広げてゆきました。なかでも、田辺の「牟婁新報」が報じた「新宮中学の怪聞」 […]
館長のつぶやき〜「佐藤春夫の少年時代」61
与謝野寛の作品掲載(二) 寛にとっては、明治43年3月に、初めての単独の歌集と言える『相聞(あいぎこえ)』という歌集が刊行されるのですが、研究家の逸見久美(いつみくみ)が『評伝与謝野鉄幹晶子』という大著のなかで、「寛の憔 […]