私の最初の大学時代はといえば専門分野の声楽研究に没頭、そして仕事(ピアノ・声楽・合唱の指導、発表会の開催)にも全力投球。つまり一般教養等は履修届けを出し、試験を受けられるだけの出席日数を確保して試験前の2日だけ参考書を読んだのみであった。受けた試験の単位は全て取得したが、勉強したという実感は全く無かった。

それでは大卒として情けなく、恥ずかしい。「天知る、地知る・・・」である。

NHKのオーディションに通っても、二期会(関西)の研究生になっても、それとこれは話が違う。

それで単なる教養もと軽く考えて入学した慶應(通信課程)であるが、教科書をみて「ギョギョッ!」となった。

日本語が読めない!教科書の日本語の文字は、少なくとも戦後教育を受けた人間には外国語よりも読みにくかった!

日本語を読むだけでくたびれてしまう様な教科書では、3足のわらじに全力投球は無理と観念した。

(慶應の名誉のために書き加えるが、そのような読みにくい教科書は数十年前に全て大改訂され、以後教科書は戦後教育を受けた学生でも極めて読みやすい、現代日本語で書かれている。)

だが、中川先生はそのことをお知りになるや「慶應は卒業しなさい!やめてはいけない!慶應は普通の大学とは違う。

絶対にやめてはいけない!」と何度も言われた。

何故、普通の大学と違うのか、その理由は、「同窓会が凄いのだ」としか教えてはくださらなかった。

“哲学(入学当時は「美学」特に音楽に関する学科などは通信課程になく、まさか慶應で音楽の勉強ができる、とは夢にも思わなかった。)などは適当にした方が身のためだ”くらいにしか考えられず、

“夢中で本を読んで声に悪影響がでれば本末転倒”と暇な時(殆ど無かったのだが)にしか本を開かなかった。

しかし、今なら分かる!

慶應同窓会組織三田会の存在とその凄さである。

その三田会の存在感・凄さは、福澤諭吉の三大事業(慶応義塾、時事新報、交詢社)である交詢社構想を引き継ぐ組織となっていることから生じていると考えられるのであるが、その交詢社構想を知る上で、社是「知識交換世務諮詢」を考えてみる必要があると思う。

社是に書かれている「知識交換」はともかく、「世務諮詢」とは何であろうか?

「その繁多なること名伏に堪へず。之を世務という」(「交詢社設立之大意」)

「此間違の頂上に達したるものは、国法に訴るのほか路なきが如くなれども、或は亦、相談諮詢の方便を以って、

事の緒に就くものも少なからず。~~~」(「同上」)

「茫々たる宇宙、無数の人、互いにこれを知らず、互いにこれを他人視して独歩孤立するは、最も淋しき事なり」

(「同上」)

*「世務」とは商取引や金銭貸借、売買、雇用、など人間が社会の中で結ぶ関係の全てを指しているようである。

住田孝太郎氏は『近代日本の中の交詢社』の中で、“世務諮詢とは旅行の際に一泊の宿の貸し借りをするといった

社員同士の相互扶助にまで及ぶ”と述べられている。

慶応義塾とは近世日本(江戸)から近代(明治)という大きな時代の変化の中で、文明を新たに造り出すという課題と「独立自尊⇒国家独立」に象徴される、近代人と近代国家への脱皮を目的とした人作りのための結社であった、と考えるのが妥当であると思うが、当然、交詢社構想もこの大きな目的の延長線上にあったはずである。

しかし、現在存在する交詢社は単なる紳士の社交クラブと化し、その精神は慶応義塾同窓会組織(三田会組織)の精神として中川先生の言われる「凄さ」となっていたのである。

独歩孤立でご苦労された中川先生の、必死のお言葉が「三田会」の必要性であったとは・・

(次号へ続く)

 

杉本知瑛子

大阪芸術大学演奏科(声楽)、慶應義塾大学文学部美学(音楽)卒業。中川牧三(日本イタリア協会会長、関西日本イタリア音楽協会会長))、森敏孝(東京二期会所属テノール歌手、武蔵野音大勤務)、五十嵐喜芳(大芸大教授:イタリアオペラ担当)、大橋国一(大芸大教授:ドイツリート担当)に師事。また著名な海外音楽家のレッスンを受ける。NHK(FM)放送「夕べのリサイタル」、「マリオ・デル・モナコ追悼演奏会」、他多くのコンサートに出演。

 

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