我が家では猫を飼ったことはないが、犬なら私が子供の頃、大きなシェパードを飼っていた。私が生まれてすぐの頃、父が知り合いから仔犬でもらってきたようだ。私が物心つく頃には立派な成犬で、私にとっては同い年ながら自分より大きな犬はちょっと怖い存在だった。したがって、この犬と遊んだ記憶はないが、父と一緒に散歩などにはよく行っていたものだ。その頃、隣の家には猫をたくさん飼っており、親・子・孫の代まで含めるとゆうに10匹以上はいた。その猫たちがかわるがわる我が物顔で我が家に来ては、食事の用意をしている最中にちゃっかり食べ物を掠め取っていく。昔の田舎の家はどこからでも出入り自由の状態だったので、常にこの泥棒猫には気をつけていなければならなかった。シッと言えば逃げるほどやわな奴らではなかった。少し後退りするだけで、ずっと食べ物を狙い続けている図々しい奴らだった。ということで、食事の前にはよく猫の番をさせられたものだ。それ以来、猫は好きにはなれなかった。
それから40年近く経ってオランダ生活をはじめ、2軒目の家に引っ越した時のことだ。家財道具を運び入れ終わり、あちこちのドアを開け放して後片付けをしていると、どこから来たのか、ソファの上に茶色のトラ模様の猫が寝そべっている。後でわかったのだが、この猫は隣の家の飼い猫なのだ。2匹飼っているうちの1匹で、とても人懐っこい。もう1匹はロシアン風であまり目つきもよくなく性格も悪い。この2匹はお互い相性があまり良くないようで、縄張りを分けて棲んでいるらしく、このトラは私たちが入る以前からこの家を半ば自分の別荘くらいに思って出入りしていたようなのだ。だから、日課のようにして我が家に通ってくる。夜が明けると同時にドアの前に座り、中の人影を見つけると背伸びして両足をドアのガラスにかけて大きな声で叫ぶ、早く入れてくれというように。娘はこの猫にジローという名前を付け、随分かわいがっていた。あまり猫好きではない私でもこの猫となら付き合えそうに思うほどだった。ある休みの日にソファで昼寝でもしようと寝転がっていると知らぬ間に私の腹の上に這いあがって来て、あろうことか猫の方も昼寝を始める。昼寝をしたいのはこちらのほうだ、お前ではない、と言いたい。猫の方からこのような接し方をされたことがこれまでなかったので驚きと同時に非常に新鮮さを感じた。もしかすると、その場所は以前からこの猫の定位置であって、それを新入りに横取りされたと猫のほうは思っていたのかもしれない。そして、いつも夜まで我家の中を好き勝手にうろついて過ごしている。悪さは一切しない。同じ猫でもこれほど違いがあるのかと思うほどだ。食事中もテーブルのすぐ近くにはいるが、食べ物には手(いや足)は出さない。昔の隣の泥棒猫とは大違い。ただ、一度だけテーブルの上のハムをくわえていたのを見つけた。食べにくそうで、ベロンと口からハムが垂れ下がっていて、ばれてしまった。何かバツの悪そうな顔をして、ハムをくわえたままトコトコとソファのところまで退却。これにはこちらも微笑まずにはいられなかった。こちらが寝る時間になるとドアを開けてやる。すると、何の未練もなさそうにスッと外に出ていく。帰るところはやはり自分の家だということは分かっている。しかし、夜明けとともに通って来て、どんなに寒くても、雨が降っていても、ドアの外で開けてくれるのを待っているのだ。おそらく、我が家が旅行中にもこうして来ていたに違いない。
その猫が、私たちが帰国する数か月前からパタリと姿を見せなくなった。どうしたのか気にはなっていたが、ある時隣人にたずねてみた。すると、姿を見せなくなったその少し後に亡くなっていたとのこと。我々が知り合った頃は既に高齢だったようでもあり、また糖尿気味だったようで、そう言えばよく水を飲んでいた。娘は泣いた。その猫は日本名は勝手につけたジローだが、隣ではオランダ名Pluisje(プラウシュ)と呼ばれていた。pluisというのは綿毛のことで、フワフワとかモコモコちゃんといった感じだろうか。ともかく、私が初めて付き合うことができた人懐っこい大人しい猫だった。

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