おぼろげ記憶帖 02 将来は美容師?

昭和23・24年(1948年)、小学校1・2年生のことです。

その頃は敷地の隣同士の境界は木の塀でした。それに沿ってとうもろこし(なんばと言っていました。南蛮のなまった言葉ではないかと思います)が植えられていました。

空き地にゴザを敷いて子供が4・5人で遊びます。とうもろこしの葉や皮、もじゃもじゃのひげでお人形さん作り。おままごとはたこ焼きよりずっと小さな1円玉くらいのちょぼ焼き作り。小麦粉(当時はメリケン粉と言っていました)の水溶きを作ってもらい本当に焼いて食べたのです。

熱源はニクロム線の電熱器がありましたが庭まで家からコードを伸ばしたのか?
七輪にちょぼ焼きのプレートを載せて貰ったのか? 小さな子供にそんな火を使う遊びをさせたのか?
多分この時は家の中で祖母が付いていてくれたのだろうと思います。
どうしても思い出せない不思議の一つです。

もう一つは髪結いさんごっこ。皆で並んで髪を梳かせたりリボンや紐でくくったり。私はこの遊びが大好きでまた上手だったそうです。
少し大きくなった頃は祖母の髪を梳き櫛で梳いていました。子供の手はやさしいとおだてられてです。
もう一人の祖母は染めてほしいと訪れます。染料は“るり羽”という名前で“るり羽、髪はカラスの濡れ羽色”と言っていました。色は一色で真っ黒。釜で湯を沸かして大変でした。この分では美容師になると言い出すかと心配したそうです。

幸か不幸かそうはなりませんでした。

でも嫁して後夫の耳の後ろに腫物が出来、治療の後小さなハゲになりました。その頃男性の髪形は刈り上げでした。今のように多種多様な髪形があればよかったのですが!理髪店で丁寧に刈れば刈るほどハゲが見えるのです。下手な散髪の方がごまかしがきくと言って、とうとう私がハサミを持つことになりました。

父親が息子の散髪をし、妻が夫の散髪をすることになり一か月に一度は床屋の開店。
息子は小学生の間でしたが夫の方はそれから50年余り専属の理容師付きの暮らしです。
近頃は髪も薄く、白くなり腕をふるう?事が出来なくなりましたが、矢張り水面下で後しばらくは理容師でいることになりそうです。

 
AZ

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