長尾村の歴史紹介(その1)

ご近所を散策していてあじさいが目につく季節です。そこで思い出して長尾の妙楽寺を訪ねました。この寺は通称「あじさい寺」と呼ばれ、境内一面にあじさいが咲き誇ります。丁度今がその季節です。そこでその昔(2008年)古文書の勉強会を通して知りえたこの地域の歴史をご紹介したいと思います。以下勉強会の会報に投稿したものそのままです。(後日譚もあって二部編成です)

長尾村の歴史紹介(その一)

文政4年(1821)の文書「村差出明細書書上帳」を読んだ。新編武蔵風土記稿は文化7年(1810)から文政11年(1828)に亘って編纂され、1830年幕府に献上されたもので丁度同じ時期の記録と言うことになる。そこでこの風土記稿に見る当時の長尾村を紹介したい。

長尾の名前の由来について諸説あるようだが長い尾根を持つ村という事からと言われている。

当時の長尾村は現在の多摩区長尾1~7丁目、宮前区の神木本町1~5丁目、神木1・2丁目、それに五所塚1丁目が重なる。一つの村が二つの行政区に分離されたのは行政上に必要な理由もあったのであろうが、当時も既に地形的な理由で二つに大きく分かれていたようである。即ち、北の河内長尾と南の神木長尾である。河内は多摩川の内側という意味で用水の便は良かったが多摩川氾濫に悩まされていたようで、逆に神木長尾(当時は既に谷長尾と呼ばれていた)は山や谷に止まらず高低差が多く、水利に恵まれず常に旱魃の危険にさらされていた。

高札場は大谷(二ヶ領用水に掛かる長尾橋の袂、切り通しの入口あたり)にあった。矢張り交通の要衝と見える。

河内長尾(今の長尾3丁目)に村の鎮守「五所権現社」がある。例年正月5日流鏑馬の式を行っていたという。射手二人介添え一人で桃の孤竹の矢を射たとあり、また9月14日にも祭礼を行っていた。
この五所権現社は妙楽寺のもので、こちら妙楽寺は天台宗長尾山勝壽院と言い、世田谷深大寺の末寺とある。亨保年間(1776~1795年)に立てられた鐘楼があったようだが、現在の鐘楼は多分その後建て直したものであろう。
谷長尾にある等覚院については同じく天台宗深大寺の流れとあるだけで詳しくはない。
神木谷に墳墓五ヶ塚があったという。現在この神木谷の場所がはっきりしないが、その他の文章から推測は可能だ。同じ神木谷の東の山根に陣屋跡があったとあり、その麓に殿下があるとある。今もこの殿下という地名が存在する。逆にこの殿下の近くの丘の麓に陣屋があったと言うことで、更にその西の付近が神木谷ということになる。
墳墓五ヶ塚は長尾景虎と従者の墓と言われるが景虎は天正6年(1578)越州春日山の城で没したと言うから少々疑問がある。その従者と言うことかも知れない。この辺りで匣(小箱)を掘り出した。(原文のまま引用すると「大さは大抵一尺四五寸四方にて蓋に高印の二字を彫り、その中に真鍮の一丸あり、大さ銀杏の如し、是を振えば虚中に物ありて音をなせり、何に用ひしものということは考ふべからざれど、葬儀などにやと村老いへり、何れにも古の名器の類なるべし、されどいつしか其ものをも失ひて今はなし」と)

長尾村では2件の旧家が知られている。鈴木家と井田家で今もこれらの姓は多い。
鈴木家は長岡勝監長岡八郎を筆頭に当時の百姓久弥まで数十代の一軸があったという。ただこの八郎に嫡子なく養子を鈴木家(北條の志)より迎えたのを機に改名したと伝えられている。
井田家はもと高橋と名乗った。先祖は矢張り北條に仕えた高橋帯刀で小田原没落後法体となってこの地に来た由。井田と改めたのは流浪のあとその家人に井田と言うのがいてその名前を使ったという。もっとも元は金井田と言ったようだがいつの頃か単に井田と呼ぶようになったという、

何度か長尾村の跡を歩いた。「村差出明細書上帳」と「新編武蔵風土記稿」を読んでこの地を歩くと古の風情を風に感じ不思議な感傷を覚えたものである。今も何か新しい発見を期待して町の故老に話を伺う機会を求めている。出来ることなら追補として寄稿したいと考えている。

    コメントを残す

    メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です