西バルカンの旅

 

(2012年ある会報に寄稿したものを原文のまま投稿させて頂きます。1991年に始まったバルカン紛争が2001年ようやく終結、ようやく復興と人心の復活を見ての旅行でした。)

 

昨年6月バルカン半島の西半分を旅行しました。バルカンの一角にありながら西ヨーロッパと言われるスロベニアから入りクロアチアのアドリア海沿岸を南下、途中から内陸地のサラエボを回りました。この地域一帯には沢山の世界遺産があり、難しい理屈抜きで大いに楽しめるのですが、今回は歴史に的を絞ってご案内させて頂きます。アドリア海の東岸はご存じのように入り江が入り組んであたかも湖水地帯のような静かな鏡面の海が続きます。そんな中でまずはスプリット。この町にローマ遺跡があります。紀元300年ころのローマ皇帝ディオクラティアヌス帝が自分の引退後のための宮殿として造営したものですが、今なお現役で人も居住する世界遺産です。

ユリウス・カエサルがローマの市民権をローマ以外にも拡大したこともあってローマ世界が大きく発展したのですが、ディオクラティアヌスはそのようにローマ入りした地方出身の皇帝の一人です。非常に民衆の信望が厚く留任を希望されたが自分で決めた退任の時期を着実に実行した数少ない皇帝と言われています。皇帝の死後やがて北方からのゴート族に押されてスラブ民族が玉突きで南下、住民もろとも放逐されますが、その後東ローマ帝国の影響力もあってローマ系住民が帰還して宮殿内にも人が住み着いたと言われます。現在も一部改築はされているものの、一階は商店、上の階には居住民もいると聞きました。

更に南下して「アドリア海の真珠」とも言われるドゥブロヴニクを訪ねました。ベネチアと並び称される海洋都市国家でした。13-14世紀頃十字軍とのスクラムで力を付けたベネチアの軍門に下りますがやがてオスマンの侵入でオスマンとベネチアの間をバランスよく運営したこともあって15-16世紀に最盛期を迎えています。ベネチアもオスマンと直接対決するのを避けるために緩衝地域として利用してきた気配も感じます。19世紀初めフランスのナポレオンがオーストリアと対峙した際、軍隊を通過させるだけと偽って占領してしまったため都市国家の命運が尽きました。

街は周囲約2㎞の城壁に囲まれ現在は一部が陸地とつながっていますが元来は一つの島で12km離れた陸地の源泉から水道を引き、噴水が2か所に設けられています。それらは今も現役で飲料可能です。旧市街には見るべきものも多く一日のツアーでは時間が不足です。

ここから内陸のボスニア・ヘルゴビナに入りますと歴史も風情も一変します。15世紀ころからオスマン帝国が進出してきます。しかしオスマン時代はむしろ比較的に穏やかな生活環境だったのではないかと思います。オスマンは必ずしもイスラム教を強要しなかったこともあり、民族的にはオスマンに抑え込まれ、あまり紛糾する余地を与えなかったからだと思います。

サラエボへの途中モスタルという田舎町を通過しました。田舎町といってもオスマンの行政の中心だったと言われているところです。ネトレヴァ河が街をそして国家を分断するように流れていて中世以来の交通の要衝ですが、ここがまた紛争の焦点でもあったわけです。オスマン帝国スレイマン大帝の時代(16C)に名建築家シナンの弟子が作ったというスタリ・モストという橋があります。ユーゴスラビアが分裂ボスニア・ヘルツゴビナが独立する際の紛争で敵の補給路、進入路を絶つために破壊(1993)されてしまいましたが、紛争終結後ユネスコの応援で再築(2004)されています。この橋が出来て以来の伝統で街の勇敢な男が欄干から川に飛び込むのですが川の水が冷たく危険だと言います。丁度若者の勇気とプライドをかけてこの慣わしに挑戦するところに出くわしました。

サラエボ、ここはご存知のように第一次大戦勃発の地です。オーストリア帝国の世継ぎ問題で、なりたくもない皇帝の後継ぎと内定されたフランツ・フェルディナント大公殿下夫妻が暗殺されるという所謂「サラエボ事件」(1914)が勃発します。セルビア人の暗殺団がチャンスを逸し失敗したと思っていたところ、たまたま道を間違えた夫妻の車が町の中央を流れる川にかかるラテン橋のたもとを通過した時事件が起こります。詳しい話はさておき南下を目指すロシアの干渉を牽制するトルコとドイツ、これにイギリス・フランスなどが介入する形で大戦に突入した訳です。今も街のあちらこちらに戦争の傷跡が散見されます。これはユーゴスラビアが分裂、 独立戦争の当時のものです。この戦争は単純な独立戦争という局面だけでは解釈できません。多民族、多宗教、多文化、多言語など複雑な要素が重なり合っています。この点日本とは全く対照的と言わざるを得ません。今回の旅行の唯一つの思い出土産はこの独立紛争で使われたという薬莢のボールペンです。我が家の思い出博物館に入っています。

50年近く前パリ駐在時代に一度今のクロアチアに出張したことがあります。ザグレブ近郊の会社を訪問しましたが当時はユーゴスラビア、チトー元帥の時代です。面談した社長は選挙で選ばれたと言っていました。お土産に何もないのでと言って木彫りの鳥の置物を頂きました。今も我が家の思い出博物館で鎮座しています。夜遅くホテルに入るとお酒を注文してもダメだと言われました。諦めかけるとボーイは気の毒だから自分の持っているのをあげましょうと親切ごかし、ちゃっかりチップと称してお金は受け取りました。今では当時と違って街も明るく、胸をはだけた観光客と敬虔なイスラム教徒が街を闊歩していました。そして街の街灯には満開の花が私たちを歓迎してくれていました。

もう一つ余談ですが、10年ほど前「マケドニアの苦悩」というタイトルでステンドグラスを制作しました。今も私の部屋に飾っています。フランスの写真雑誌 ”Paris Match” に掲載されていた白黒写真をもとに作成したものですが、当時の住民の苦悩の表情そのものです。ユーゴ解体=ボスにヘルツゴビナ独立の折、430万の人口の内、セルビア人33%、クロアチア人17%、ボシュナク人(ムスリム)44%が対立、最後は民族浄化にまで発展したことはご存じの通り。写真は丁度その頃のものです。

ウイーンの空港から飛び立った時、はたと日本という平和ボケの世界へ帰るのだと思ったものでした。

 

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