十男60歳 兄ちゃんが死んだ
四男の兄が亡くなった。兄弟が多ければ自ずと葬儀も多いと思われるだろうが、一番下の十男のボクには悲しみは“ひと10倍”だ。
目を覚ますと枕元に真新しい野球のグローブがある。ボクは風邪で小学校を休んでいた午後。「兄さんからだよ」と母が言う。隣県の紡績工場に勤める四男の兄は帰郷するたびにボクに土産を持参した。「リア王」「メロス」などちょっと難しい本もあったが、この日は野球のグローブだ。
「これは本革じゃね(だね)ー!」。飛び上がった。グリースもついている。それまではビニール製のグローブで、ボールを受けると手が痛く、捕りにくかった。本革グローブを持っている仲間はいなかった。高熱が下がる感じがした。翌日の田んぼでの〝三角ベース〟で新グローブのボクが主役、鼻高々だった。兄は結婚後も、自分の子供が生まれても、転勤してもお土産は欠かさなかった。
そんな兄が帰郷の際「どうせオレは〝口減らし〟されたのだ」と杯を交わす父に愚痴った。四男で家業の農業を手伝っていたが、二男が家を継ぐことになり父の計らいで紡績工場に就職した。だが兄は「俺は外に放り出された」が口癖だった。高度成長を前にした日本の昭和三十年代のことだから、どの家の事情も似たようなものだったろうが……。コツコツ貯めたカネで末弟のボクが喜ぶものを買い、一方で親に自分の境遇を愚痴る。家庭を持ってもそれは変わらなかった。
その兄がバイク自損事故で死んだ。定年後、趣味の野菜畑から帰宅中のこと、炎天下の夏作業で「疲れた。先に帰る」と一緒にいた義姉さんに言い残した直後だった。転倒した。73歳だった。
ボクは亡骸に「兄さん、まだグローブのお返しをしてないよ」と泣くと「おまえ、生意気言うんじゃないよ!」とボクにあの愚痴る顔で言っているようだった。大好きだったが兄の心の内は今も分からない。それから1か月後、今度は二男の兄が亡くなった。
※写真は1955年(昭30)、四男の兄の就職先が決まりその出発前に撮ったもの(らしい)。
吉原和文