フランスあれこれ111 セーヌ川にかかるビラケム橋

ご存じのエッフェル塔のセーヌ川を挟んだ対岸がシャイヨー宮殿、この間の橋がイエナ橋、そして問題の橋はもう一つ下流側にあるビラケム橋です。不思議なのは2階建てになっていて上に地下鉄が走り、下の中央が歩道で、両脇に車道があります。最初は誰がこんな橋の設計を?そしてその理由は?という疑問を持ちました。教えられた回答は単純明快、地下鉄が後から出来たので改造したということで一応納得。今回改めてその背景を古いパリの案内書やネットで調べてみました。時代背景には興味深いものがあります。

1862年第2回パリ万博に日本が初めて参加、フランスの先進性を見てビックリしたわけですが、第3回のパリ万博が1878年に開催されました。この万博のシンボルが“自由の女神”の頭部分でした。アメリカ独立から約100年という事もあり、この後ニューヨークの自由の女神を制作して送られました。ただフランスがドイツに敗れた普仏戦争の後でドイツは万博に招待されなかったといういわくつきの万博の時にこの橋が建造されました。建設当初は単純に人だけがセーヌの対岸に渡る歩道橋でした。対岸にはパリ16区のパッシーと言う商店街があってそこに人を寄せる心算だったのではないかと思います。当時この橋の名前が「パッシー歩道橋」でした。

1889年第4回パリ万博(この時エッフェル塔がシンボルになった)を境に交通事情が急速に変化します。1903年橋の改良工事に取り掛かりますがきっかけはメトロ(パリの地下鉄)、同時に自動車道路も並行して工事されることになりました。

橋の中央付近から下に降りるとセーヌ川の中央に人口の中洲、そして“白鳥の散歩道”と言われる細長い小道があります。せいぜい1km程度で次の橋(グルネル橋)に来ます。その先端に自由の女神のオリジナルの一つが立っています。これはフランスの革命100年を記念して当時の在仏アメリカ人から贈られたと聞きます。この辺りから見るエッフェル塔は絵になる雰囲気です。自由の女神は川下、即ち西を向いています。その先の向こうはニューヨークと言う次第。

さてこのビラケム橋の名前ですが、先の第2次世界大戦の最中、1942年、アフリカ北部のリビアでフランス自由軍とドイツのロンメル将軍率いる陸軍との激しい戦闘があり、フランス兵約3000名の犠牲を出しながら要塞を守ったと言われます。その地の名前であるBir Hakeimを後世に残すためという事が背景です。橋が大きく改造されたことが名前を変えるのにも都合の良いタイミングだったかと思います。

 

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