私のふるさと~奈良県五條市西吉野町2

3.村の産業-林業-
この街道に漸く車が通れる道路が出来たのは、電源開発が戦後「十津川・紀の川綜合開発事業」で熊野川にダムを作り始めた為で、それまで主要産業の材木を運ぶのは専ら筏流いかだながに依っていた。家の下を流れる丹生川もそれ程広い川幅ではないが部分的に石を積んで堰き止めては一挙に流したらしい。因みに母は若い頃筏流し姉妹として名を売り、時の歌手中村メイ子が慰問に来てくれたこともあったらしい。只、筏は木材の連結に使うかずらが腐ってしまう為に冬場だけの仕事で間も無くトラック輸送に取って代わられてしまう。

一方父の方は木挽こび木馬きんま引き。毎朝樫ノ木で作った重い木馬きんまそり)を担いで山に登り、木を満載して 1 日に 1~2 回山を下りてくる。これもそのうち技術の進歩でチェーンソーと索道さくどうに替わってしまう。戦後の復興期から高度成長期は拡張された道路とトラックを使って村は林業で潤った。団塊の世代が小学校、中学校に流れ込む度に臨時のプレハブ校舎が増築され木材の需要に拍車をかけた。この需要を見越して奈良県では大和ハウス工業が創業する。(昭和 30 年)

山林業務は重労働で弁当もメッパ両側に飯を詰め、山に着いたら先ず半分、昼になったら残り半分を食べる。1升飯はザラで大阪から嫁に来た人が「おひつを持って行く。」と驚いたらしい。オカズの味噌に谷間の水を注ぎ、焚き火で焼けた石を放り込むと即席の味噌汁が出来る。飯を食ったら直ぐに働くので胃に十分血液が回らず消化不良で胃がんになる人が多いと言われた。又、毎日チェーンソーを使う振動で白蝋病はくりょうびょうと言う労災も問題となった。

木を出した後、残った枝葉の柴刈りは婦女子の仕事。 かずらで縛り柴小屋を作って乾燥させ十分枯れて軽くなってから背負って家まで運ぶ。プロパンガスが普及するまで燃料はどこの家でも薪を使い、学校でも薪ストーブ、薪は生徒の家が供出した。

この様にして栄えた林業も東京オリンピックから大阪万博がピークでその後は急速な円高が進み外材に押され一挙に衰退、若い人も村を出て過疎化が進み子供の声も聞こえなくなった。今や山の上の家は空き家だらけ。

国道がまだ舗装されていない頃から材木を満載したトラックが通り出した。大雨の度に道が V 字型にえぐられ、擁壁ようへきで補修されるのだが、当時は車止めが無く狭い道で後輪片側を浮かせて対向するのが上手い運転とされ、ミスって谷底に落ちる車が多かった。

私が中学校に上がる前、父は山林労務から産地仲買人に転じた。山の立ち木を買ってこれを切り出し市場に出す仕事である。資金は母の実家に頼った。移動手段もそれまでの自転車からヤマハの 250cc オートバイ→スバル 360→トヨタパブリカ 800 と車を乗り継いだ。中学校の頃家族 5 人でスバル 360 に乗り紀伊半島を半周、椿温泉で一泊の家族旅行を楽しんだことが思い出である。

4.村の産業-農業-
 戦後の新しい農業政策で上部団体の指示があったのかも知れないが、革新的な農協の専務さんが居られて、小、中学校時代に村の農作業が一変した。白黒 TV が入って来たのも農協からだった。農協で日用品を買うと TV の観覧券がもらえて、娯楽も無かった村の人達は夜、山を下りて農協の TV の前に集まり、力道山やルー・テーズのプロレス観戦、花菱アチャコの漫才に興じた。

村に初めて耕運機なるものも入ってきたし、索道が設置された。戦前は一面の桑畑と言うことだったが、物心付いた頃には全部柿畑に変わっていて、肥料や収穫された柿の運搬は全て背負って上り下りしていたのが谷を越えて一瞬で出荷場に集められる。日用品の運搬等にも使われ労力は随分軽減された。又、ワイヤーに沿って通信線も張り巡らされ、村人への伝達、仕事を終えた頃には歌謡曲、村に葬式が出る時には御詠歌が大音声のスピーカーを通して村中に鳴り響いた。お陰でラジオも無かった我が家ではあったが三橋美智也の歌など直ぐ覚えた。農協の作物指導は有難かった反面、皆一斉に同じものを作るので収穫期には暴落と言う首を傾げることもあったが…。その内、村の皆が車を持つ様になって山の上まで道が整備され索道も公共放送も徐々に撤去されていった。

村の畑は急な斜面にあり、雨が降ると表土が流れてしまう。畑を耕すとは上に土を引揚げることで、流失を止める為に山の落ち葉を集めて撒いた。特に松の枯葉は絡み合って土の流れを止めてくれる。この落ち葉拾いを「コクマ掻き」と言って婦女子の仕事であった。

霜が下りると柿は一挙に熟してしまう。天気予報で霜が降りると聞くと前日にタイヤを燃やすのだが、誤ってタイヤを落とすと猪の如く下の川に向かって転がり落ちて行った。父は「辛気臭い」と言って畑仕事を嫌い、農作業は専ら母と私の仕事であった。

毎日の山、畑の仕事の中で娯楽と言うほどのものは無かったが、婦人会や農協の活動は活発で、婦人会では中学校の体育館を借りて夜にバレーボールの練習が行われていたし、農協主催で年に一度はバスを借り切っての旅行も企画されていた。男達は、雪が降って山に入れない日は花札を使ったバクチに興じていた。印刷物は無かったが母は「家の光」を読んでいた。多分、農協から買わされていたのだろう。

~つづく~

土谷重美

 

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