パンダ・大仏・兵馬俑・てんこ盛り1000歳旅行(その2)
◎10月30日(水)
モーニングコールは 6:00 朝食は6:00~ ロビー集合は8:30
<参考資料>
「中国の土地の賃借権は50年分 一括払い」(所有は出来ない) 建物には固定資産税はかからない。
「中国の税制:8種類あり。 ① 流通税類 ②所得税類 ③資産税類 ④特定目的税類 ⑤財産税類 ⑥行為税類 ⑦農業税類 ⑧関税 *流通税=増殖税 + 中国(消費税) 増殖税は資産の譲渡・貸付ならびに役務の提供に対して消費税は奢侈品、嗜好品を対象に。 日本の消費税は資産の譲渡・貸付ならびに役務の提供が課税対象。 *モノに対して 13%、サービスに対して 6%(2019/3/21 改正) *所得税:①企業所得税(日本の法人税)現在は 25%(小規模企業は 20%)②個人所得税(日本の所得税)③増値税(日本の消費税) |
★西安(Xi’an)(陝西省の省都)
遥か昔の西周時代から11王朝が都を置き、東西交易により繁栄した悠久の都である。
かつて、長安と呼ばれたこの街は2000年に亘り歴史の中心であった。秦の始皇帝が中国を統一し、シルクロード交易の西の拠点として唐代に繁栄を極めた。今残っている城壁は明代のもの。玄奘三蔵がインドから経典を持ち帰り漢訳に励んだ「大雁塔」(652 年創建)がある。7層の大雁塔は今では少し傾いているので、水を地下に注入し傾きを直しているらしい。城壁内にあ る市街地は東西、南北の碁盤の目の通りの中心には「鐘楼」がある。この形状は日本の平城京や平安京の手本となった。空港と街の中心との間で大きな公園づくりの工事が行われていた。 公園を造れば、その回りにマンションが建設され、人々は公園の近くのマンションを購入する。 中国人は公園の近くにすむのが好きだ。どの公園でも老人がダンスや太極拳をして楽しく集っ ている。(ガイドの説明より)。
★秦始皇帝兵馬俑博物館(世界遺産)
西安市の郊外に博物館がある。この兵馬俑は、20世紀最大の発見と言われている。始皇帝 陵の存在は「史書」や「漢書」等に記載されていて、1962 年に省の文物管理委員会が一度調査をしたことがあるが、この兵馬俑の存在は知られていなかった。
1974年3月29日、西安市の東北の県の農民(6人)が井戸を掘っていて、偶然に破片を発 見した。人間大の人形を発見(左足欠損)、胴体は無傷で、わきに青銅の矢があった。
2か月後に新華社通信の記者がこの陶俑が秦代の俑だと見抜いて、当局に報告し、その後、 国家文物局の命で1年間、東西 200m超、南北60m超の1号坑(6000 体の俑)を発掘した。19 76年4月には2号坑、5月に3号坑を発見。
この博物館の敷地は広く1号~3号を合計すると約2万平方メートルに及ぶ。2200 年前に作られた約8,000点の陶器がある。秦の始皇帝は13歳で即位し、即位後すぐに造営に着手。36年かけて完成したもの。陶器製の人物像は身長が180cm、上半身は空洞、下半身は無垢で、 重量が 300kgもあるが、顔の容は全て異なっている。馬のお腹は空洞。
入り口で、携帯マイクを貸してもらい、1号坑展示館から見学開始。一号坑の屋根は蒲鉾上で体育館のような形をしていて、東西は 230m、南北は 62m。秦軍の実際の隊形は東に向いている。 指揮官、騎兵、歩兵の軍団で*武士俑(兵士俑、歩兵俑)*御者俑(4頭立て馬の指揮用戦車)等々。見学した時にも、発掘作業が行われていた。作業は専門家が慎重に進めている様子で、破片を集めて原型に戻す手間の掛かる作業である。ガイドは今のペースで行けば、 完全発掘まで100年間は掛かるだろうと説明していた。坑の回りは見物客でごった返していた。今までの一日の最大入場者数は 137,000 人。最近は一日の入場者は65,000人に制限されている。現行の入場料は15元。(=日本円で225円)
見物を終えて、集合場所に時間通りに行ったが、仲間が見つからず、慌てて出口から出て探した。出 口から下にはお店が沢山あり、その辺りを探したが見つからない。出口からもう一度入ろうとしてが、許可してもらえず、仕方なく、最初の入り口のところへ戻り、英語が出来る事務員をやっと探して、入場した時 の近くにあったセンターからホテルへ電話をしてもらった。やっとガイドと連絡が取れて、無事に仲間と会うことが出来たが、言葉が通じないのは「難儀」なことかと実感した。同時に、仲間や引率者(王さん)に大迷惑を掛けてしまった。(何度も、場内で呼び出してくれたらしい。) |
1 号坑とは別の場所に5体の兵馬俑が展示されていた。4頭立ての馬車は精密に作られていた。 今年は発見だれた時から45周年、博物館開館から40周年である。
★青龍寺(真言宗)
創建は 582 年、当初は霊感寺と呼ばれた。621 年に一度廃寺となったが、662 年に再建され観音寺と改められた。空海が住職の恵果から真言密教を学んだお寺である。711 年には青龍寺となったが、845 年会昌の廃仏によって寂れていた。1982 年以来、西安人民政府が発掘調査を行い、この地がいにしえの青龍寺だと確認した。今では日本からの寄付で境内には空海記念碑や恵果空海記念堂が立っている。日本の信者が寄付をした桜の木も植えられている。元四国霊場会会長により、四国八十八箇所の0番札所と名付けられた。真言宗の付法の八祖 の最後が弘法大師(高野山を創建した)である。
2か月前に高野山へ行ったこともあり、記念として数珠を買ったが、お布施も含んでの1万円は高かった。
★大雁塔(2014年「シルクロード:長安・天山回廊の交易路網」の一部として世界遺産登録) 唐の高僧玄奘三蔵がインドから持ち帰った経典や仏像を保存するために高宗に申し出て建立した塔である。 7層 62mあり、大慈恩寺の境内に立っている。三蔵は帰朝後にこの寺で11年間に亘り翻訳活動をし、40部の経典を漢訳した。仲間と一祖に木製の階段を最上階まで登り、 最上層から四方八方の市内を撮影した。
・その他の見聞
① 20 年前にはこの大雁塔の周囲は畑だった(ガイド説明)
② 来年 隣接市と合併すれば、市の名前が西安→長安になる可能性がある(ガイド)
③ 西安には大学多い(約 100 校)学生数は120万人(ガイド)もいる。(西安の人口は96万人)
★大興善寺
写真:西安大雁塔前で記念撮影
西晋代に建てられた仏教寺院。インド僧がここで経典を翻訳して中国に密教を伝えた。1,700 年以上の歴史をもつ長安第一の大寺である。玄宗の時代に密教道場とされ、ここで日本の円仁・円珍らも修業した。会昌の法難(845 年)で荒廃し、清代にはイスラム教徒により破壊された。寺院の敷地は広大で、唐代や宋代に作られた仏像をはじめ、彫刻芸術品、仏教建築の遺跡など数多く残されていて、現在は国の重要文化財に指定されている。
★西安の城壁
13.74kmの城壁が西安のまちを長方形に囲っている。東西に長く、南北は短いが東西南北 に門があり、西側の安定門が一番大きい。城壁はレンガ造りで、上部の幅は 12~14mあり、自転車で走行できるがレンガ造りなので走りはスムースではないし、一周回るのに2時間はかかる。城壁の途中には土産物店がある。東門の近くにはウオルマートがあった。
著者紹介
小原一浩(おはら かずひろ)
1939 年大阪生まれ。
「NPO 法人ふれ愛さやま」事務局長
大学卒業後、メーカーに勤務し、インドネシア、大阪、東京、名古屋、滋賀県守山市での勤務を経て1999年定年退職。その後NPO 法人ふれ愛さやま、訪問介護事業所などを設立。大阪狭山市議会議員を2011年から2 期 8 年務める。
『人と違った生き方を!』(文芸社 2019 年)など5冊の著書がある。