「宮沢賢治」人気の秘密(4)
3.仏教徒としての賢治
現在、賢治の墓は日蓮宗の身照寺にある。我々がこの寺に赴いた時は、ボタン雪が降りしきっていた。気候が良いときには、観光客が多く訪れるのであろう、「ここは観光地ではありません。騒がないでください」との看板が目に付いた。しかし、「宮澤賢治の墓」という案内標識も見られる。賢治の墓は名前が刻まれていないので、事前に調べていかなければ、場所がわかりにくい。
宮澤家の家宗は浄土真宗。父政次郎は花巻仏教会の要職にあったことから、家の中は宗教的雰囲気につつまれていた。賢治は3歳の時から仏前に正座して、親鸞の「正信偈」や蓮如の「白骨の御文章」を暗誦していたという。
18歳の時、肥厚性鼻炎の手術から退院後、彼は家業への嫌悪や進学の悩みでノイローゼ状態になってしまう。そんな時、島地大等編『漢和対照妙法蓮華経』を読み、身も震えるような感動を覚える。彼の理想は、母イチの幼年時代の教育と法華経への信仰がベースになって築かれたものと思われる。
妹トシが東京で入院している時、賢治はトシの看病にあたる一方、田中智学が設立した日蓮宗の在家団体国柱会の国柱会館(上野)を訪ねる。24歳で盛岡高等農林学校研究生を終了するが、その年の10月、国柱会信仰部へ入会した。
家業の質屋の修行を積み始めたものの、不満は募る一方。家出をすべきかどうか悶々たる日々を送る。ある日、店番をしていると棚から日蓮大聖人の御書上下二巻が棚から落ちてきた。「これこそ天啓」と思い、賢治はその45分後に花巻を出る汽車に乗り、上野の国柱会館へ向かった。国柱会館で何か仕事を求めるが、その日は断られ、とりあえず3畳一間の下宿に移った後、国柱会機関紙の清書の手伝いをする。しかし、仕事の内容は彼の求めているものと一致せず、また同僚との関係もうまく行かず、悩んだ。ひと月3000枚の原稿を書き出したのは、そんな時だった。しかし妹トシ病の報に、花巻に戻ることになる。
賢治の熱心な進めにもかかわらず、父は改宗に応じなかった。しかし賢治の死後、改宗し、賢治の墓は日蓮宗のこの寺に移されたのである。賢治の文学、そして生き方には、日蓮仏法の影響が強く現れている。輪廻転生の考え方から、自分や家族がもし魚として生まれていたら、まずそうに魚を食べる自分をどのように魚は、見ているだろうかと話している。
東京出張中に倒れ、もうこれまでと思った時には、父母に宛てた遺書の中に次のような文をしたためた。「この一生の間どこのどんな子供も受けないような厚いご恩をいただきながら、いつも我儘でお心に背き、たうたうこんなことになりました。今生で万分一もついにお返しできませんでした。ご恩はきっと次の生又その次の生で報じいたしたいとそれのみを念願いたします。どうか信仰といふのでなくてもお題目で私をお呼び出しください。そのお題目で絶えずお詫び申しあげお答へいたします」。
1933(昭和8)年、37歳で死ぬ間際、父が賢治に「遺言は?」との問いに「国訳妙法蓮華経を千部おつくりください。表紙は朱色、校正は北向氏、お経の後ろには『私の生涯の仕事はこの経をあなたのお手元に届け、そして其中にある仏意に触れて、あなたが無上道に入られますことを』ということを書いて知己の方々にあげて下さい」と言い残した。
齋藤英雄