北原白秋と柳川(その2)
2つの悲劇
白秋は、尋常小学校では神童の名を欲しいままにし、2年飛び級をするほどであった。文学への情熱は高まり、その才能が新聞雑誌に初めて取り上げられたのは、17歳の時(1902年)。福岡日日新聞に投稿した短歌のうち、一首が掲載されたのである。そんな状況の中で、2つの悲劇が白秋を襲った。第一は、1901年、沖ノ端(おきのはた)の大火により、白秋の家が、母屋と蔵の一部を残して消失したことである。父は酒造業の再建をめざし、多くの借金を重ねるが、家運は傾いていく。第二の不幸は、1904年、日露戦争勃発の翌日、親友の中島白雨(本名:鎮夫)が、スパイ容疑をかけられ自殺したこと。それをきっかけに一層詩作に没頭する白秋と、家業の復興を白秋に期待する父との対立は深まる一方であった。神経衰弱に陥った白秋は、伝習館中学卒業を目前にして中退。父に隠れて上京し、早稲田大学英文科予科に入学した。
帰れぬ故郷 柳川
1907年、白秋は、与謝野寛、太田正雄、平野万里、吉井勇らと、九州旅行に出た。これは、後に「五足の靴」という紀行文にまとめられる、その際、柳川に立ち寄る。しかしその後、1928年までの実に20年間、故郷柳川に帰ることはなかった。これは、柳川の実家が破産し、父母たちが借金を返せぬまま、柳川を離れたためである。
大阪朝日新聞社の依頼で空を飛び、柳川へ20年ぶりの帰郷を果たす時、白秋は故郷がどのような形で彼を迎えるか不安であったに違いない。そうした不安は、熱烈な歓迎を受けることで一掃された。白秋は、伝習館での講演後、矢留小学校で自分の後輩にあたる子供たちが「待ちぼうけ」を歌うのを聞き、声を上げて泣いた。
矢留小学校の西の公園には、「帰去来」の詩碑が建っている。「山門(やまと)は我が産土(うぶど)、雲騰(あが)る南風(はえ)のまほら、飛ばまし、今一度(いまひとたび)」で始まる「帰去来」は、この20年ぶりに故郷に戻った時の気持ちを思い出して、白秋が晩年書いたものである。
日本人の心を揺さぶる白秋の童謡
北原白秋の名は、没後70年近くなる現在でも有名である。しかし、具体的な作品名となると、名前が出て来ない人が少なくない。そんな人でも、白秋の作った童謡の名を上げると、「ああ、これは白秋の作詞ですか!」と懐かしそうな顔をする。
「国民詩人」と言われるほど白秋の人気が高まったのは、1925年に放送が開始された「ラジオ」という「新しい」メディアに負うところが大きいようにも思う。ラジオを通じて、彼の童謡は日本全国のお茶の間に浸透していった。当時、子どもが学校で習う歌は、味気ない文部省唱歌。それに比べて、白秋の童謡は、日本人の心の琴線に触れるものであった。「からたちの花」、「この道」、「ペチカ」、「待ちぼうけ」など、北原白秋作詞、山田耕作作曲というゴールデンコンビの生み出す童謡は、ラジオで大人気となる。世の中が急速に変化しつつある中で、人々は白秋の童謡を聞くことで、日本人として静かに自分の心と向き合う時間を得たのである。そして、メディアの主流が、ラジオから、テレビ、インターネットへと変化した今日においても、白秋の童謡は日本人の心を揺さぶる響きを持ち続けている。
完
齋藤英雄